択捉島
えとろふとう
北海道東部、根室半島東端にある納沙布(のさっぷ)岬の北東110キロメートルにある島。南西は国後(くなしり)水道を隔てて国後島に臨み、北東は択捉海峡を隔てて得撫(ウルップ)島以北の千島列島に連なる。長さ203キロメートル、最大幅30キロメートル、面積3182.65平方キロメートル。火山が多く、最北端に神威(かむい)岳(1322メートル)、中北部に北散布(ちりっぷ)山(1561メートル)、西部に単冠(ひとかっぷ)山(1566メートル)、その西に阿登佐(あとさ)岳(1206メートル)などがある。また南西部の萌消(もえけし)湾は沈水カルデラ、南端のベルタルベ山(1221メートル)は新しい円錐(えんすい)火山であるなど、火山地形の宝庫で、活火山も多い。海岸線は海食崖(がい)が続き、屈曲は少ないが、紗那(しゃな)、単冠湾などの錨地(びょうち)がある。第二次世界大戦前の紗那測候所によれば、月平均気温は2月零下6.9℃、8月15.5℃、年平均気温は4.2℃で、年降水量は約1000ミリメートル。冬の季節風はきわめて強く、夏には濃霧の日が多い。地表はエゾマツ、トドマツ、カンバ類、ミズナラ類、下生えはササが覆っている。サケ、タラ、カレイ、タラバガニなどの漁獲がある。
1786年(天明6)最上徳内(もがみとくない)が探検、1798年(寛政10)近藤重蔵(じゅうぞう)が探検して「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。翌年、高田屋嘉兵衛が航路を開いたが、定住者は少なかった。第二次世界大戦前は根室支庁(現、根室振興局)管内の択捉郡留別村(るべつむら)、紗那郡紗那村、蘂取(しべとろ)郡蘂取村の3郡3村からなり、現在も形式上は存続する。戦前は北洋漁業の基地として紗那などの漁港がにぎわい、人口3729(1942)に達した。単冠湾は、ハワイ攻撃の日本海軍艦艇(かんてい)の集結地(1941年11月)として知られる。日本のいわゆる「北方領土」の一つであるが、戦後はソ連、ソ連解体後はロシア連邦が支配し、サハリン州の所属で、イトルプ島Итурупとよび、紗那をクリリスクと称している。
[渡辺一夫]
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択捉島
えとろふとう
千島列島中最大の火山島。北緯 45°,東経 148°付近に位置し,日本の最北端をなす。北東に択捉 (フリーズ) 海峡をへだててウルップ (得撫) 島,南西に国後水道をへだてて国後島が連なる。長さ 200km,幅 30km,面積 3139km2。西単冠 (にしひとかっぷ) 山 (1566m) ,神威岳 (1322m) の火山がある。寛政 12 (1800) 年に近藤重蔵,高田屋嘉兵衛が渡航,漁場 17ヵ所を開いた。周囲の海は,サケ,マス,タラ,カニ,コンブ,ホタテガイなど北洋漁業の有力な漁場。 1945年ソ連 (現ロシア連邦) が占領。北方領土に含まれる。
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択捉島
えとろふとう
千島列島の一つで,列島中最大の島
18世紀末,シベリアを東進してきたロシアから開国・通商要求がおこったので,江戸幕府は1798年近藤重蔵らを千島に送り調査にあたらせた。近藤は択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てて帰った。1854年の日露和親条約では,千島列島を南北に二分し,択捉・得撫 (うるつぷ) 間を日本・ロシアの境界線とした。1875年の樺太・千島交換条約では千島全島が日本領となったが,第二次世界大戦後ヤルタ協定でソ連に引き渡された。日本は国後 (くなしり) 島とともにその領有権を現在ロシアに対して主張している。
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択捉島【えとろふとう】
イトゥルプIturup島とも。千島列島中最大の島。3167km2。火山性の山地(最高点1567m)からなり,海岸は断崖が多い。中心は北岸のクリリスク(沙那)で,太平洋岸に良港の単冠(ひとかっぷ)湾(カサトカ湾)がある。1798年近藤重蔵が渡航し大日本恵土呂府の標柱を建てた。日本の北洋漁業の根拠地であったが,1945年ソ連の統治下にはいった。日本によって返還運動が続けられている。
→関連項目ウルップ[島]|国後島|高田屋嘉兵衛|時規物語|松浦武四郎|間宮林蔵|レザノフ
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えとろふ‐とう ‥タウ【択捉島】
北海道東部、千島列島最大の島。国後(くなしり)島の北東方にある。安政元年(一八五四)日露和親条約により日本領となった。第二次世界大戦後は、ソ連を経てロシアが統治している。ロシア語名は Iturup。
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デジタル大辞泉
「択捉島」の意味・読み・例文・類語
えとろふ‐とう〔‐タウ〕【択捉島】
北海道東部、千島列島中最大の火山島。北洋漁業の基地として紗那などの漁港がにぎわった。第二次大戦後、ソ連(現在はロシア連邦)の統治下。面積3139平方キロメートル。
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択捉(えとろふ)島
北海道東部、納沙布岬の北東約119kmに位置する島。第二次世界大戦後、ソ連(現ロシア連邦)が占領。
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えとろふとう【択捉島】
千島列島南部にある火山島。面積3139km2は千島列島最大で,長径203km,短径6~30kmの細長い形をしている。国後(くなしり)島の北東にあり,択捉海峡を挟んでウルップ島に相対する。1798年(寛政10)近藤重蔵,最上徳内が探検して〈大日本恵登呂府〉の標柱を立て,翌年高田屋嘉兵衛によって航路が開かれた。1855年(安政2)の日露和親条約によって日本領とされた。汽船航路が開かれた92年から漁民を中心とする移住者も増えた。
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択捉島
えとろふとう
南千島諸島の北端に位置し、幅約二二キロの国後水道を隔てて国後島の北東に隣り合う島。南西から北東への長さ約二〇三キロ、幅は六―三〇キロ、面積は三一三九平方キロの千島列島中最大の島である。千島火山脈上にあるため一〇〇〇―一五〇〇メートル級の活火山と休火山十数座がおおむね四群に分れてそびえ、その中間には内保・入里節、ラウス・年萌、留茶留原の三平原が広がっているほか、多数の小河川や沼々が点在して美しい景観を作り出している。島の北西海岸(オホーツク海側)は比較的屈曲に富み、各所に岬があって錨地に適した入江が多いが、南東海岸(太平洋側)は概して断崖が続いて船澗はわずかである。そのため集落の多くは北西海岸にあり、南東海岸にはまれであった。ただ昭和一六年(一九四一)の真珠湾攻撃の基地として有名な単冠湾の両側にある天寧・年萌の両不凍港は、冬期の停泊に重宝されていた。
択捉島の先住民は国後島と同様北海道アイヌの同族で、漁労・狩猟を生業としながら定住の生活を営んでいた。それゆえ北千島の島々を移動しながらもっぱら海獣猟に従事し、半地下式の住居を作っていた千島アイヌとは生活や風俗慣習にかなりの相違がみられ、言葉にもいくらかの差異があった。
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