手向村(読み)とうげむら

日本歴史地名大系 「手向村」の解説

手向村
とうげむら

[現在地名]羽黒町手向

羽黒山西方山腹に位置し、山上にある羽黒権現社(現出羽三山神社)門前町。西方は国見くにみ村。ほぼ北西南東に走る羽黒街道のゆるやかな坂道に沿って街村を形成する。山上は羽黒権現社境内地で、当村は山下にあたる。古くから羽黒山の登拝口として門前集落を形成していたが、戦国期の争乱により山中・門前とも衰微、最上氏時代から復活の兆しをみせ、上杉・最上両氏の抗争で荒廃した添川そえがわ(現藤島町)より多くの宿坊が移り、近世の繁栄につながったという。

集落東端の北側、標高九四メートルの畑地にごうはまJ遺跡がある。縄文時代前期末から中期初頭の遺跡で、土壙一基とピット三個を検出、土壙は貯蔵穴とみられている。大木6・7a式土器が出土しているが北陸系の竹管文主体の新保式、東北北部の絡条体圧痕文主体の円筒上層a1式の影響が指摘される。地内にはほかに縄文時代後・晩期、平安―室町時代の複合遺跡の高林たかばやし遺跡がある。戦国期の争乱で荒廃した集落は、近世に入って次第に整えられていった。宝永七年(一七一〇)の「三山雅集」には的場まとば小路・いけなか(池ノ仲)あら町・みぞ町・桜小路、上裏かみうら(古墓町ともいう)などの町名、享保九年(一七二四)の村絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)には引出ひきで町・下町・池ノ中・亀井かめい町・長屋ながや町・桜小路・的場小路・七郎左衛門小路・法蓮寺ほうれんじ小路・黒沢くろさわ町の町名がみえるが、これらの町割は寛永―寛文年間(一六二四―七三)羽黒山別当宥俊・天宥の時代に進められ、「羽黒山中興覚書」によると宥俊の時代に「新町黒沢迄町屋敷割有。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報