懐徳堂跡(読み)かいとくどうあと

日本歴史地名大系 「懐徳堂跡」の解説

懐徳堂跡
かいとくどうあと

[現在地名]東区今橋四丁目

享保九年(一七二四)尼崎あまがさき町一丁目に設立され、同一一年幕府より公許をうけて大坂学問所と称した漢学塾。大坂には早く儒医も現れていたが、一七世紀後半には五井持軒が塾を開き、ようやく儒学が盛んとなっていた。正徳三年(一七一三)安土あづち町二丁目(のち高麗橋三丁目に移り焼失)多松たしよう堂という講舎が開かれ三宅石庵が招かれた。これが懐徳堂の前身である。享保年間は将軍吉宗が就任し、民衆教化のためにも好学の気運が高まり、江戸に会輔かいほ堂が公許されるなどのことがあった。また商品経済の展開のなかで、家の存続を願う有力者によって家訓・家法がつくられる時代で、生活道徳として儒学が求められた。享保二年平野郷ひらのごう町に含翠がんすい(跡地は現平野区)が設立され、同一二年八尾やお環山かんざん(翠)ろう(跡地は現八尾市)ができた。このような状況のなかで、懐徳堂は道明寺吉左衛門(富永芳春)・三星屋武右衛門(中村良斎)・舟橋屋四郎右衛門(長崎克之)・備前屋吉兵衛(吉田可久)・鴻池又四郎(山中宗古)の五同志によって設立された。彼らはいずれも富裕な町人であり、講舎を尼崎町一丁目の道明寺屋隠居屋敷に建て、初代学主として石庵を招いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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