引八幡宮(読み)くしひきはちまんぐう

日本歴史地名大系 「引八幡宮」の解説

引八幡宮
くしひきはちまんぐう

[現在地名]八戸市八幡 八幡丁

国道一〇四号(三戸街道)の東、八幡やわたの中央に位置する。祭神は誉田別尊ら十数体で、旧郷社。

雑書の正保元年(一六四四)八月五日条に「櫛引八幡ヨリ濁酒之神酒両樽則別当持参〆上ル」、同年九月一四日条に「櫛引八幡御代参三十三騎、御神馬三疋川原絞住屋野三歳、栗毛馬屋子二歳、栗毛黄色三歳、御太刀一腰之代三百文、今日岩鷲別当養海ニ渡」とある。同書の承応二年(一六五三)七月一三日条には「今度御代参ニ付、櫛引八幡宮三十三騎参詣、神馬鹿毛四歳、川原毛四歳、青毛三歳、右御初尾銭九貫九百文」とあり、盛岡藩成立当初から藩の総鎮守としての地位を得ている。八戸藩の創設以降当社の所在地である八幡村は盛岡藩の飛地となっていた。

寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では由来について仁安元年(一一六六)南部氏の遠祖加賀美次郎遠光が甲斐国巨摩こま南部なんぶの庄(現山梨県南巨摩郡南部町)に創建したものを、承久二年(一二二〇)南部光行が家臣津島平治郎に命じて現十和田市滝沢たきさわに勧請し、その後現在地に遷宮したとする。「南部史要」では建久二年(一一九一)光行の子実光が勧請し、貞応元年(一二二二)櫛引村に移したとする。一説では当初の勧請地は現三戸さんのへ南部なんぶ小向こむかい本三戸もとさんのへ八幡宮社地ともいう。その後一時当社は衰微したが、応永二二年(一四一五)三戸南部守行が再興したといい(邦内郷村志)、建武元年(一三三四)以後城を本拠とした南部師行が当社の祭祀を再興し、社領を復して流鏑馬神事を始めたと伝える(「八戸家伝記」南部家文書、「三翁昔語」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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