広安村(読み)ひろやすむら

日本歴史地名大系 「広安村」の解説

広安村
ひろやすむら

[現在地名]福野町広安、井口いのくち村広安

北東をたび川、西を山田やまだ川に限られ、南は石田いしだ村。城端じようはな道が村内を通る。赤祖父あかそぶ川以南に荒島あらじまと称する飛地(現井口村広安)がある。村名は加賀右衛門広安が開いたことにちなむという。広安は木曾義仲の末子義基といわれ、乳母に背負われ加賀国に逃れたので加賀右衛門と名乗ったと伝えられる。明暦二年(一六五六)まで上広安村・下広安村・広安新村に分れていたが、同年三ヵ村が広安村となり、延宝二年(一六七四)上広安村・下広安村に分れ、同四年再び広安村となったとされる(元禄一四年「村名由来書」川合家文書)

広安村
ひろやすむら

[現在地名]瀬高町大広園おおひろぞの

大木おおぎ村の西にあり、南西下小川しもおがわ村。村名は弘安とも書く。正和三年(一三一四)三月一日の北条政顕下知状(石清水文書/大日本古文書四―六)によると、香椎宮領本吉もとよし庄内吉里よしさと・弘安両名の神用米皆済が蒲池余一入道へ命じられている。天正(一五七三―九二)末年頃と推定される年月日不明の天満宮領筑後国所領注文断簡(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一七)には安楽寺(太宰府天満宮)領として山門郡内の「弘安六町」がみえている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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