幸手宿(読み)さつてしゆく

日本歴史地名大系 「幸手宿」の解説

幸手宿
さつてしゆく

[現在地名]幸手市みなみ一丁目・同三丁目・なか一―五丁目・きた一―三丁目・ひがし一―五丁目・緑台みどりだい一―二丁目・西にし一―二丁目・さかえ・幸手

現幸手市の西部に位置し、東は上吉羽かみよしば村・天神島てんじんしま村、南は上高野かみたかの村、西は下川崎しもかわさき村など、北は内国府間うちごうま村など。地形は平坦で、南端に志手しで沼、北方に比丘尼びくに沼がある。日光道中の宿駅であった。「風土記稿」には小名牛村うしむらに城山という古利根川を要害にあてた平城があったと記載されているが、これが一色氏の居城幸手城である。一色氏が幸手に知行地を得た時期は、鎌倉府が下河辺しもこうべ庄を御料所とした至徳三年(一三八六)以後のことと思われる。築城年代は不明だが、少なくとも一五世紀後半の享徳の乱中には、古河公方の拠点下総古河を守る諸城の一つとして存在していたと推定され、戦国時代を通して一色氏の居城となった。同氏は古河公方の重臣であるばかりでなく、古河公方の文化サロンを支えた優れた文化人を出している。とくに一色直朝は月庵と号し、歌集「桂林集」、随筆「月庵酔醒記」などの文学作品のほか、画家として紙本著色貞巌和尚像(久喜市甘棠院蔵、国指定重要文化財)などの作品を残している。一色氏は直朝・義直の代の天正一〇年(一五八二)古河公方足利義氏の死、同一八年小田原北条氏の滅亡を迎えた。義直は関東に入国した徳川家康に仕え、同一九年幸手で五千一六〇石を宛行われている(「古文書集」内閣文庫蔵)。その後まもなく一色氏は所領を下総国相馬そうま郡に移されており(寛政重修諸家譜)、幸手城もこのとき廃されたとみられる。

田園簿には田宮たみや町とみえ、「薩手共云」と注記される。田六七一石余・畑八五一石余、幕府領。ほかに聖福しようふく寺領一〇石・宝持ほうじ寺領一〇石がある。寺領を除き、江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)元禄郷帳に幸手町とみえ、高二千一〇六石余、ほかに幸手町枝郷として牛村があり、高三六三石余。天保郷帳に幸手宿とみえ、「古者幸手町・牛村二ケ村」と注記される。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。検地は元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として実施され、持添新田の検地は享保一六年(一七三一)・同一九年に行われたという(「風土記稿」など)。幸手宿はなか町・あら宿・右馬之助うまのすけ町・久喜くき町・牛村を合せた総称として用いられた。右馬之助町は宿伝馬需要が増大する元禄一二年に上高野村新井右馬之助(のち中村に改名)によって開発され組入れられた(文政六年「御尋ニ付書上帳」中村家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報