平城京内遺跡(読み)へいじようきようないいせき

日本歴史地名大系 「平城京内遺跡」の解説

平城京内遺跡
へいじようきようないいせき

〔左京一条三坊十五坪・十六坪〕

法華寺ほつけじ(通称法華寺北町)にあたる。昭和四二年に国道二四号バイパス建設に伴う事前調査として行われ、二町分を占める宅地が見付かっている。奈良時代については前後四回の造営が行われ、そのうちこの宅地が最も整ったのは第四期で、南北廂付の東西棟桁行四間以上に梁間四間の掘立柱建物を中心に、石組みの庭園を伴って検出されている。また第三期も同様の掘立柱建物を中心に造営されているが、第三期に属する溝からは「楽毅論、夏」「霊亀三年六月」と記したものや、「官奴婢食料米一斛」などと記した木簡および「由加和銅」と記した墨書土器が出土している。出土木簡の内容からみて、相当高い身分の人の住宅跡と考えられる。このことは出土遺物の中に緑釉を施した水波文の文様をもつなどがあることからも傍証される。

この地域の遺構は平安時代のものもあるが、奈良時代についてはその中葉以降の建物が造営されておらず、空閑地となっていた。このことから「懐風藻」に佐保の宅を形成したことがみえ、藤原氏の陰謀に屈して天平元年(七二九)に没した長屋王の宅地ではなかったかと推定する説もある。もっとも佐保周辺には長屋王のみならず大伴一族なども住んでいたから、この説もなお断案とはいいがたいが、同宅地が当時一級の貴族の所有にかかるものであったことは間違いなさそうである。

〔東三坊大路跡〕

法華寺町(通称法華寺北町)にあたる。一条の南半部分について南北二四〇メートルにわたって大路とその東側溝とを発掘している。この東側溝からは、土器・瓦・・土馬・木簡などが見付かっているが、その大半は平安時代初め(九―一〇世紀)のものであって、当時までこの三坊大路が大和から山城へ抜ける道路として使用されていたことを物語っている。木簡では、大路近くに立てられたと思われる告知札が四点見付かっている。また銅銭は一三八枚出土したが、それらは和同開珎以下の皇朝十二銭のうち最後の乾元大宝を除く一一種類を含んでいた。また墨書土器には「隅寺」「新殿」などと記したものがあった。

〔左京三条二坊十五坪〕

二条大路南一丁目にあたる。ここでは十五坪全域でひとまとまりになった宅地が発見されている。十五坪の中で検出された主要な遺構は、掘立柱建物と十五坪の西を限る南北の小路一条である。これらの掘立柱建物は、大きく四期に分れ、八世紀の初頭から九世紀中頃まで営まれた。このうち奈良時代のほとんど大部分を占めるのは第一期と第二期で、前者と後者とは天平勝宝(七四九―七五七)頃に代わったものらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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