市原郡(読み)いちはらぐん

日本歴史地名大系 「市原郡」の解説

市原郡
いちはらぐん

上総国の西部に置かれた古代以来の郡。南西は海上うなかみ郡、東は長柄ながら郡・山辺やまべ郡に接し、北は下総国千葉郡。中世には市原郡域に市東しとう郡・市西しさい郡・山田やまだ郡、また海上郡域に海北かいほ郡・馬野まの郡・佐是さぜ郡の郡名を称する単位が現れ、近世にはこれら海上郡域も編入して広大な市原郡域となる。郡名に異表記はない。「和名抄」東急本などでは伊知波良の訓を付し、同書名博本や「延喜式」民部省および「拾芥抄」ではイチハラと読んでいる。古代の郡域は現市原市北東部で、東京湾に注ぐ村田むらた川流域および養老ようろう川下流域北岸にわたる。

〔古代〕

律令期以前、当郡域のうちでも村田川下流域を中心とする地域は「国造本紀」に記す菊麻国造の領域に比定され、菊間きくま古墳群がその中心と目される。弥生時代には、菊間遺跡大厩おおまや遺跡・草刈くさかり遺跡など村田川南岸台地に大規模な集落の形成が認められ、東京湾沿岸の諸地域と同様に核となる地域圏が出現する。四世紀後半、前方後方墳と推定される新皇塚しんのうづか古墳が築かれ、村田川下流域の中核的首長勢力が生れたと考えられる。村田川下流域北岸に位置する大覚寺山だいかくじやま古墳(千葉市中央区)もこれと系譜を同じくする前期首長墓とみられる。五世紀前半には大厩の浅間様せんげんさま古墳、千葉市中央ちゆうおう区の七廻塚ななまわりづか古墳などの首長系の大型円墳が村田川下流域の北・南岸にそれぞれ造営され、五世紀後半頃に至って潤井戸の高野前うるいどのこうやんまえ古墳、菊間の権現山ごんげんやま古墳などの前方後円墳が造営されたと考えられるが、その内容は現段階では明確でない。六世紀代の首長墓域は天神山てんじんやま古墳・姫宮ひめみや古墳・東関山とうかんやま古墳などのある菊間地区に集約されていったとみられるが、未調査古墳が多く、不明な点が多い。

菊麻国造の名はのちの菊麻くくま郷に継承されているが、上総国府は南方の上海上国造の支配領域との境界に置かれたと推定されている。郡の成立は明らかでないが、天平勝宝七年(七五五)筑紫国に赴いた防人に市原郡上丁刑部直千国がおり、「蘆垣の隈処に立ちて吾妹子が袖もしほほに泣きしそ思はゆ」と詠んでいる(「万葉集」巻二〇)。同五年六月一五日の仕丁送文(正倉院文書)に市原郡大倉おおくら駅家日奉部安麻呂嫡日奉部足人がみえ、宝亀四年(七七三)には当郡江田えた郷の刑部稲麻呂が東大寺に経師として仕えることになっている(六月八日「僧興弁経師貢上文」同文書)。天長五年(八二八)郡内の海部あま郷の刑部小里人が白布を貢納しており、国司とともに郡司大領外従七位上勲七等谷直国主が署名している(「正倉院調庸関係白布銘文」正倉院宝物銘文集成)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報