川守村(読み)かわもりむら

日本歴史地名大系 「川守村」の解説

川守村
かわもりむら

[現在地名]竜王町川守

岩井いわい村の北にある。村域は北西流する日野川の両岸にわたり、集落は同川左岸の平野部に位置。雪野ゆきの(三〇八・八メートル)稜線を境に北から東にかけては新巻あらまき(現近江八幡市)上羽田かみはねだ(現八日市市)横山よこやま(現蒲生町)など。苗村なむら神社の徳治三年(一三〇八)三月一九日の棟札によると、建保五年(一二一七)一〇月五日の社殿造立に際し、神主佐々木六郎の代官を「河守四手」が勤めている。正長元年(一四二八)一二月一三日の荒牧諸散在年貢引付帳(左右神社文書)によれば、当地の宮内四郎が「是近三分一」の一町九反余(分米四石余)の年貢を請負っているほか、「河守 太夫二郎衛門」「河守 道秀」などの名が散見する。明応四年(一四九五)一〇月吉日の日吉庚申灯油米納帳(同文書)には「川もりかうし屋赤衛門」などとある。集落西端に吉田氏累代の居館吉田よしだ館跡がある。吉田氏は佐々木定綱の弟厳秀を遠祖として、文安年中(一四四四―四九)秀弘の代より当地に住したといい(「吉田家先祖家伝」吉田文書)、秀弘の子上野介重賢と重賢の子出雲守重政は明応年中弓道名手日置弾正正次(日置流射術の祖)に師事し、重賢はその後弓道の根本流派となる吉田流の開祖となった(武芸小伝)。江戸時代に入っても吉田家からは射術の名手が輩出した。また雪野山の南東、ヒノキ山とよばれる山の山頂に野寺のでら城跡がある。吉田氏の居城ともいわれ、東西約三五メートル・南北約二〇メートルの本郭跡と思われる削平地などが残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報