島田保・島田新保(読み)しまだほ・しまだしんぼ

日本歴史地名大系 「島田保・島田新保」の解説

島田保・島田新保
しまだほ・しまだしんぼ

両保ともに現島田町・上島田町・内方新保うちかたしんぼ町一帯に比定される。

〔島田保〕

建治三年(一二七七)と推定される小槻有家申状案(壬生家文書)によると、小槻有家は訴訟中の北島きたじま保について、橘成経が小槻永業に寄付した地は北島保全体ではなく、近江延暦寺領加賀国北島保のうち「島田村」であると主張している。明徳元年(一三九〇)五月七日、足利義満は「島田保惣領職并庶子分等」を保善寺に寄進(「足利義満寄進状写」内閣文庫蔵曇花院殿古文書)。応永四年(一三九七)・長禄二年(一四五八)・文明一七年(一四八五)の通玄寺寺領目録写(同文書)に保名が載る。通玄つうげん寺は足利義詮夫人良子の母智泉尼の建立した寺で、応仁の乱後、同じく智泉尼の建てた曇華どんげ庵に合併して曇華院(現京都市右京区)となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報