島戸浦(読み)しまどうら

日本歴史地名大系 「島戸浦」の解説

島戸浦
しまどうら

[現在地名]豊北町大字神田 島戸

西は海士あま瀬戸せとを挟んでつの島、東は油谷ゆや湾に挟まれた半島状の小村で、神田下かんだしも村に囲まれる。集落は西側の入江にあり、江戸時代には島戸後地しまどうしろじと島戸浦に分れていた。長府藩領で豊浦郡田耕筋に属す。

承久四年(一二二二)の長門国留守所下文案(長門一宮住吉神社文書)

<資料は省略されています>

とあり、関が設けられていたことが知られる。住吉すみよし神社(現下関市)奉免船を早く帰し遣すべきことを命じた建長六年(一二五四)二月日の地頭沙弥蓮親下文(同文書)も残る。また貞治三年(一三六四)八月付の長門国法華寺免田坪付注文(長門国分寺文書)に「神田別符島戸方」とある。

島戸浦の成立は天文二〇年(一五五一)大内氏の残党が角島に渡り住みついた時、西某の率いる七、八十人がこの地に移住し、漁業によって生活し永住したという伝えがある。元和元年(一六一五)まで萩藩に属し、それ以後長府藩領となった。「地下上申」では海石二四石余、地方石六二石余(うち田方四七石余、畠方一四石余)、家数九一軒とあり、豊浦藩明細書では地方に一五軒、浦方に二〇一軒と記される。浦庄屋一人の下に畔頭二人があり、古くは肝煎ともよばれ、下に十人頭がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報