岩槻城跡(読み)いわつきじようあと

日本歴史地名大系 「岩槻城跡」の解説

岩槻城跡
いわつきじようあと

[現在地名]岩槻市本丸一―四丁目・太田一―三丁目・岩槻

岩槻台地中央部東端の舌状台地上に所在する。元荒川およびその湿地帯を外堀として利用し、舌状台地の基部に空堀を切って孤立させた平城。一五世紀半ば頃に扇谷上杉氏家臣太田氏によって築かれた岩付城を前身とし、江戸時代は譜代大名の居城。明治四年(一八七一)廃城となる。築城伝説から白鶴はくつる城・うき城・たけたば城の別名がある。城跡は湿地を挟んで北側台地上の本郭(本丸・二の丸・三の丸など)、南側台地上の新曲輪、元荒川沿いの帯曲輪からなる。遺構の保存が良好な新曲輪等の部分は県指定史跡。昭和六二年(一九八七)本丸・三の丸の一部が発掘調査された。礎石を有する建物跡は発見されなかったが、掘立柱建物跡・ピット・土壙・井戸跡などが多数発見された。ここで三期以上の生活面が確認されており、戦国期から江戸時代にかけて多数の構築物が造られたことが判明した。遺物は刀・きせるなどの金属製品、石臼・硯などの石製品、陶磁器・かわらけなどの土製品等が多数出土している。なお旧城門(黒門)は廃城後浦和に移設され、その後移転を重ねたのち現在地(太田三丁目)に移建され、裏門(明和七年建立、文政六年補修)も同所に移設されて現存する。

〔岩付城〕

中世の岩付城は享徳三年(一四五四)末に勃発した享徳の乱に古河公方足利成氏に対抗する拠点として、長禄元年(一四五七)に扇谷上杉持朝家臣太田道真(資清)によって築城されたとされる(鎌倉大草紙)。しかし永享一二年(一四四〇)七月結城合戦勃発に伴う武蔵村岡合戦に持朝が岩付から後詰の軍勢を出しているので(同書)、岩付は扇谷上杉家の所領で、そこに城館があった可能性が高い。太田氏による築城後は太田氏が城主として、資家―資家の子資頼―資頼の子資時―資時弟資正―資正の子氏資(資房)と続いた。

永正九年(一五一二)六月古河公方足利政氏は子の高基との内訌に敗れ、下野の小山政長を頼ったが、同一三年一二月そこを追われて常陸国下妻円福しもつまえんぷく寺を経て上杉朝良を頼り、しばらく当城に滞在している(「円福寺記録」内閣文庫蔵)。大永五年(一五二五)二月太田資頼は家臣渋江三郎の裏切りにあい、同月六日に北条氏綱に城を攻略され、石戸いしど(現北本市)に逃れた。氏綱は後事を渋江三郎に託し、九日に江戸城に戻っている(三月一〇日「北条氏綱書状」上杉家文書)。資頼が岩付城を奪回したのは享禄四年(一五三一)のことという(「年代記配合抄」内閣文庫蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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