山本貞一郎(読み)やまもと・ていいちろう

朝日日本歴史人物事典 「山本貞一郎」の解説

山本貞一郎

没年:安政5.8.29(1858.10.5)
生年:享和3(1803)
幕末尊攘派志士。名は要人,弘素,通称芳次郎,信右衛門,貞一郎。信濃国筑摩郡松本(松本市)の大庄屋兼飛脚問屋および酒造・薬種業を営む近藤茂左衛門弘美と雪の次男。茂左衛門弘方の弟。伊那郡山本村(飯田市)の旗本近藤石見守家老久保田弘忠の養子となるが,養父の死後江戸に出る。開港前後から尊攘論を唱え,生家の縁で江戸の水戸藩邸に出入りしていたことから藩主徳川斉昭にも知られた。安政5(1858)年斉昭の内命を受け,名を砂村六次と変えて兄弘方と共に京都で志士活動に入る。水戸藩に幕政改革の主導権を認める密勅降下には成功したものの,幕府の厳しい取り締まりに逃亡を断念して自殺。<参考文献>唐沢貞次郎『贈位記念近藤山本両志士小伝』

(高木俊輔)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本貞一郎」の解説

山本貞一郎 やまもと-ていいちろう

1803-1858 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
享和3年生まれ。近藤茂右衛門の弟。生家は信濃(しなの)(長野県)松本の名主中村守臣(もりおみ)に国学をまなぶ。江戸の水戸藩邸に出入りし,安政5年徳川斉昭(なりあき)の密書をうけて京都にむかい,兄とともに水戸藩への密勅降下をはかるが,安政の大獄直前の安政5年8月29日自殺した。56歳。本姓は近藤。名は弘素。

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