小松庄(読み)こまつのしよう

日本歴史地名大系 「小松庄」の解説

小松庄
こまつのしよう

和名抄那珂なか子松こまつ郷の郷名を継ぐ。九条家領。遺称地は不明。同郷は上櫛梨かみくしなし・下櫛梨を除く琴平ことひら町全域および仲南ちゆうなん町、満濃まんのう町の一部を含む地域に比定されているが、当庄の庄域がそのどれだけの部分に及んでいたかは不明である。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状(九条家文書)で、後鳥羽院の中宮であった娘の宜秋門院任子に譲った所領のうち、女院庁分御領の一つに「讃岐国小松荘」がみえる。兼実はこれらの所領の多くは相伝の領であり、また新立寄進の所もあるといっている。兼実が姉の皇嘉門院聖子から相伝した所領のなかには当庄はみえないから、兼実の代の新立庄園かと思われる。「法然上人行状絵図」によれば、承元元年(一二〇七)旧仏教勢力の圧迫を受けて土佐国に流されることになった法然は、彼に帰依していた兼実の計らいでその所領である小松庄に落着き、庄内生福しようふく(跡地は現満濃町)で念仏の行を進め、当国近国の人々が群集して帰敬したという。

小松庄
こまつのしよう

武庫むこ川河口付近の西岸にあった中世の庄園。元来平家一門の所領であったが、平家没官領として源頼朝の所領となり、次いでその妹の一条能保室に譲渡された(「吾妻鏡」建久三年一二月一四日条)。これより先、寿永三年(一一八四)五月一八日の源頼朝下文(末吉文書)によると、源光清を「武庫庄小松并供御所」の下司・公文に補任し給田一〇町を与えており、当時小松は武庫庄に含まれていた。安貞二年(一二二八)八月五日、後鳥羽院の母である七条院藤原殖子は当庄を修明門院(後鳥羽後宮)に譲り、その死後はその孫の四辻宮善統親王に譲渡するよう定めている(「七条院処分目録案」東寺百合文書)。その後いったん同親王家の手を離れ、正和三年(一三一四)七月三日の春宮尊治親王令旨案(同文書)によって、皇太子尊治親王(後醍醐天皇)から四辻宮家に返還された。

小松庄
こまつのしよう

比良山地の東麓に位置し、湖岸にまで広がる庄園。北は音羽おとわ(現高島郡高島町)、南は比良庄に接する。小松の地名は湖岸に沿って広がる小松原(雄松崎)の名に由来し、雄松・男松の転訛したものという。応永三四年(一四二七)二月、飛鳥井雅縁は「越前下向記」に「小松と云所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり」と記し、国親が「夕波やしげくよすらん近江路の小松の浜に千鳥鳴くなり」(夫木抄)と詠んだ景勝地である。

小松庄は鎌倉期には園城おんじよう円満えんまん院領であった。弘安三年(一二八〇)七月一三日に作成された比良庄堺相論絵図(室町期の写、伊藤家蔵)裏書に「円満院御領江州小松庄」とみえる。室町時代に入ると音羽庄内の打下うちおろし(現高島町)としばしば境相論を起こし、永享八年(一四三六)二月に両者は幕府の政所で対決、湯起請の末小松庄が勝訴し、鵜川并郡堺相論目録(伊藤文書)に庄側の訴訟者として「同代官住信院御雑掌者出本殿、庄下之雑掌者伊藤式部尉方舎弟弥次郎方」などの名がみえる。

小松庄
こまつのしよう

市北西部の小松町付近に比定される。同町諏訪神社の文明一八年(一四八六)二月二一日付の棟札銘(甲斐国志)に、「甲斐ノ州山梨ノ県小松ノ庄石宮」とある。いし宮は境内に巨石があったために名付けられたもので、永禄六年(一五六三)八月三日の棟札銘にも山梨郡小松庄石宮と記録されていたというが(同書)、いずれも現存しない。文明一八年の棟札には大檀那として小松孫七有清、地頭として小松修理亮有久の名がみえ、両者とも源氏を称している。小松氏は甲斐源氏である武田有義の孫時信(小松六郎)を始祖とし(尊卑分脈)、時信の父逸見有信(吉田太郎)もこの地を領していたと伝えられる(加藤遠山系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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