小塚村(読み)こづかむら

日本歴史地名大系 「小塚村」の解説

小塚村
こづかむら

[現在地名]中川区小本本こもとほん町・小塚町・まつ町・篠原橋しのはらばし通・宮脇みやわき

「徇行記」に「東西一町三十一間南北十五町十二間」と記される南北にきわめて細長い村。現小塚町からは、須恵器や山茶碗が出土し、古墳時代頃からの先住の跡が確認される。天正一八年(一五九〇)秀吉朱印状に、熱田社領として「六拾八貫百四拾文 須賀郷内」が付与されており、これは当村が「小須賀村」(尾張志)、「小須ケ村」(徇行記)と表記されているところから当地をさしていると考えられる。寛文一一年(一六七一)の家数三七、人数一八六(寛文覚書)

小塚村
こつかむら

[現在地名]藤沢市小塚・川名かわな一丁目・村岡東むらおかひがし一―二丁目・弥勒寺みろくじ一―二丁目・同四丁目

柏尾かしお川左岸にあり、鎌倉郡に属した。中世は村岡郷に属したが、寛永(一六二四―四四)の頃に分村し、江戸期は村岡郷五ヵ村の一つ。村名は村内の古塚に由来するという(風土記稿)正保国絵図に小塚村とある。

幕府直轄領から享保一三年(一七二八)下野烏山藩領。幕末は彦根・熊本・佐倉など諸藩の預所となり、慶応三年(一八六七)幕府直轄領。検地は貞享元年(一六八四)幕府代官国領重次が実施し、同三月の検地帳(彦坂文書)によれば田一四町二反余、畑一八町三反余。元禄七年(一六九四)三月の藤沢宿助郷帳(県史九)では定助郷に指定され勤高二七四石。

小塚村
こづかむら

[現在地名]涌谷町小塚

現涌谷町南東部に位置し、篦岳ののだけ丘陵の南側斜面が平野部に接する丘陵下辺一帯を東西に占め、南端を江合えあい川が東流する。正保郷帳に村名がみえ、田六貫四一六文・畑三〇五文で水損と注される。「安永風土記」では田七貫六一二文、畑三一二文(うち茶畑二四文)で、蔵入二四文以外すべて涌谷伊達氏の知行地であった。人頭・家数・男女数・馬数は記されない。当地の低湿地は上流からの排水や江合川の溢水、さらに篦岳丘陵から流れ出る沢水などが滞水するため、山間の沢田を耕作するのが主であった。村西端の追戸沢おいどさわ中野なかの黒岡くろおかとも称され、「大崎最上黒川及支流家譜」(伊東信雄家文書)によれば、涌谷八郷のうちで、室町・戦国期涌谷氏の領地であったという。

小塚村
おづかむら

[現在地名]上下町小塚

上下川の最上流域に位置し、南は小堀こほり村、東は神石じんせき田頭たんどう(現神石町)に接する。付近一帯には古墳時代中期およびそれ以降の古墳が多く、村名はそれと関係あるものと思われる。毛利氏時代には西隣の有福ありふくに古くから城を構えた有福氏の知行地があり、「小塚之内」として八・四二石が記される(「閥閲録」所収湯浅権兵衛家文書の天正一九年九月二五日付「毛利氏奉行人連署打渡状」)。しかし大部分は林志摩守元善に宛行われており、文禄三年(一五九四)九月三日付の毛利輝元知行宛行状(「閥閲録」所収林平八家文書)に「小塚村百四拾五石」とある。

小塚村
おづかむら

[現在地名]竹田市小塚

川床かわとこ川最上流部にあり、おか城下から肥後への往還の北側にあたり、岡城下から四里半。西は肥後国阿蘇郡片俣かたまた(現熊本県産山村)南西田代たしろ村、北東池辺いけべ村。正保郷帳では大戸ねぎ郷に属し、田方三八石余・畑方四八石余。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は下、免四ツ八分、田一九石余(二町二反)・畑五三石余(一一町五反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はなく、開畑三石余(六町三反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報