富田東村(読み)とみだひがしむら

日本歴史地名大系 「富田東村」の解説

富田東村
とみだひがしむら

[現在地名]大川町富田東

寒川さんがわ郡の東端に位置し、東は山を隔てて大内おおち小砂こざれ馬篠うましの二村(現大内町)に接し、北は相地あいじ峠を越えて鶴羽つるわ(現津田町)に出る。土井どい川が流れるが、水量に乏しく、灌漑は主として溜池による。北地きたじ古墳八剣やつるぎ古墳群などがある。平安末期に成立した富田庄の一部。村名は寛永三年(一六二六)九月二二日の知行所定米状(有馬文書)にみえ、富田東村二一〇石余は生駒氏家臣平田新兵衛知行所であった。寛永国絵図では富田郷に含まれる。寛永一七年の生駒領高覚帳の村高は前掲定米状に同じ。小物成は同一九年の高松領小物成帳によると綿二四三匁。年貢鶴羽村御蔵に納めた。寛政元年(一七八九)の人数四九五、うち本百姓三九九、大工・桶屋・池守・医者・酒屋など九六。戸数一二九、馬三・牛三九、神社一一、寺一、池一九、自分林一一(「巡見使諸事書出覚帳」大川町史)。池泉合符録に船原ふなばら池・薬師やくし池など一五の池が記され、新たに享和二年(一八〇二)船原上池、文化一一年(一八一四)三仏寺新さんぶつじしん池が築造された(大川町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報