宮崎庄(読み)みやざきのしよう

日本歴史地名大系 「宮崎庄」の解説

宮崎庄
みやざきのしよう

現宮崎市域の大淀川北岸一帯に比定される豊前宇佐宮領の庄園。宇佐大鏡によれば、天平勝宝年中(七四九―七五七)に宇佐宮に寄進された封戸のうち児湯こゆ郡五〇烟の系譜を引くとされ、町別一石五斗の宇佐宮弥勒寺封租籾と春・秋祭料を負担する御封田七七丁、および永承年間(一〇四六―五三)国司海為隆の時に宮崎郡の郡家ぐうけ院内の荒野を豊前宇佐宮に寄進し立券された庄田部分からなる。この庄田部分の田積は長承年間(一一三二―三五)の検田目録では一四〇丁一〇代であったものが、のちに一六〇町の起請定田に減額されたとあり、所当済物として重色米二一二石・軽色布二一二疋・田率綿七九両二分などが課されていた。なお後世の伝承を含む寛治五年(一〇九一)一一月一九日の年紀のある川南かわみなみ(田吉)元宮社の縁起写(県立図書館蒐集複写資料)によると、寛治元年の霖雨・洪水の被害により都万つま(現西都市都萬神社)への参詣が途絶えたのち、同四年に田吉たよし川南元宮社が遷宮し、川北かわきたの宮崎、川南の清武きよたけ(現清武町)の信仰を集めたという。この記載は当庄が大淀川北岸地域であることを象徴したものであろう。建久図田帳には宮崎庄三〇〇町とある。この田数は南北朝末期に書写された図田帳(長谷場文書)に継承され、また天文二年(一五三三)八月三日の宇佐宮側が作成した宇佐宮領注文(到津文書)でも三〇〇町の田数は維持されており、永く公田数として記憶されていた。

建久六年(一一九五)五月将軍源頼朝は、先に幕府が鎮西奉行として派遣していた天野遠景が宮崎庄の年貢を押領し舎弟の保高に宛行い、宇佐宮の遷宮などにあたって混乱が起こったため、守護として中原親能を補任している(「将軍家政所下文案」益永文書)。建久図田帳にも地頭は中原親能とある。仁治二年(一二四一)三月三〇日の関東下知状(田中教忠氏旧蔵文書)によれば、丹波国日置ひおき(現兵庫県篠山町)・宮崎庄は武蔵国足立あだち郡の年貢と交換に「赤子御前」の御領となり、宮崎庄は将軍進止の関東御領に転換していた。このことについては、弘長元年(一二六一)一二月日の預所兼地頭代大江某下文写が奈古なご神社に伝存している点からみて、将軍家が地頭・預所職をもち、その代官に鎌倉御家人の大江氏を補任した形態をとっていたものとみられる。文永三年(一二六六)七月三日、海清景に奈古神社の大宮司職を安堵するにあたり、清景が地頭左衛門尉行能の時に安堵された先例に任せて、伊賀前司の指示で安堵している(「里長奉書写」奈古神社文書)

宮崎庄
みやざきのしよう

宮前とも書く。有田川の河口、現宮崎町の付近にあった荘園。応徳三年(一〇八六)一一月日付内侍藤原氏施入状案(米良文書)に荘名がみえる。比呂ひろ(現有田郡広川町)と宮前庄のそれぞれ免田一三町五段を、後世供養のため那智山に施入したもの。署名は「内侍尚侍藤原氏」と記すが、関白藤原教通の女真子ではないかとされる。したがって宮崎庄の本家は摂関家であることが考えられるが、領有関係についてはこの文書以外の史料は知られていない。なおこの文書の「宮前庄」については「宮原庄」との読解も行われているが(荘園志料、平安遺文など)、宮前庄(宮崎庄)が正しい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報