宇布見村(読み)うぶみむら

日本歴史地名大系 「宇布見村」の解説

宇布見村
うぶみむら

[現在地名]雄踏町宇布見

浜名湖東岸に位置し、北東志都呂しとろ(現浜松市)北西山崎やまざき村、西・南は浜名湖に面する。村名は「和名抄」に載る敷智ふち雄踏おぶみ郷が転訛したものと推定され、鎌倉期には宇布見郷が成立した。随庵見聞録(岡部家文書)には、慶長九年(一六〇四)七月に匂坂十左衛門・油井弥八・榎本孫吉・河原久和などを検地奉行として検地が行われたことが記されるが、詳細は不明。正保郷帳では高一千八石余、うち田五八八石余・畑三一五石余、塩高野高六五石余。幕府領五六九石余、浜松藩領四〇〇石、寺社領三九石であった。幕府領では延宝三年(一六七五)(賀茂家文書)、浜松藩領では同五年に検地が行われた(随庵見聞録)。同五年の浜松町村家数高間尺帳では幕府領の家数九七、浜松藩領の家数七二。元禄一一年(一六九八)から浜松藩領四〇〇石、旗本鍋島領六八八石余、旗本松平二氏領三八五石余となる(元禄一二年「遠江国高辻并郡村記」加茂家文書など)。元禄郷帳では高一千五一八石余。宝永二年(一七〇五)旗本松平登之助領に替わり三河国吉田藩領、同五年からは旗本鍋島領および旗本松平半右衛門領に替わり幕府領となり、以降幕府領・浜松藩領・吉田藩領の三給となる。寛延二年(一七四九)には幕府領八〇八石余、吉田藩領一四三石余、浜松藩領四五二石余であった(「手牒楽」嶋家文書など)。旧高旧領取調帳では幕府領八〇八石余、浜松藩領五三八石余、吉田藩領一四一石余、ほかに寺社領四五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報