女鹿村(読み)めがむら

日本歴史地名大系 「女鹿村」の解説

女鹿村
めがむら

[現在地名]遊佐町吹浦ふくら

滝野浦たきのうら村の北にあり、北は小砂川こさがわ(現秋田県由利郡象潟町)。庄内海岸に面し、はま街道が通る。大同二年(八〇七)升川ますかわ農民の一部が当地に移住したと伝える(「山仕置書物」菅原文書)。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に、「砂越城主武藤万歳丸殿御分地」は「女鹿」までとある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には妻鹿村とあり高一三石余。寛永元年庄内高辻帳にはめ鹿村とあり高六九石余。正保三年(一六四六)の庄内三郡左沢浮役帳に御役塩五〇俵とある。延享三年(一七四六)の巡見使御用覚書(杉山文書)では高七三石余、免五ツ五分五厘、肝煎・長人百姓それぞれ一、家数五四・人数一八〇、塩釜釣釜二、塩年貢一〇石、海猟船二、刺網役銀一七匁余・鰯網役銀七匁余、山御年貢米一俵余。

女鹿村
めがむら

[現在地名]一戸町女鹿

馬淵まべち川の支流女鹿川に沿って開け、東は西法寺さいほうじ村・小鳥谷こずや村。寛永四年(一六二七)三月一七日の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、「弐百石 女鹿」などが八戸弥六郎に宛行われている。このとき八戸弥六郎直栄は遠野知行替を命ぜられ、「遠野郷中代官申付る内」に「二戸郡女鹿村 奥友村は松崎刑部」とある(内史略)。同年一一月二六日の八戸かみ宛南部利直替地遣状(三翁昔語)によれば、当村の二〇〇石は「巻堀市川」と替地とされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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