大豆津別符(読み)おおまめつべふ

日本歴史地名大系 「大豆津別符」の解説

大豆津別符
おおまめつべふ

鎌倉期よりみえ別符。比定地は明らかでないが、大河氏との関連から現瑞穂町域とも考えられる。正応四年(一二九一)正月一八日の関東下知状案(大川文書)に豊前宇佐宮領として大豆津別符がみえ、別符の雑掌と横大路種経が下司職をめぐって争ったが、幕府は種経の知行を停止することとしている。当別符は、「宇佐大鏡」にみえる「豆津別符」にかかわると考えられ、応和三年(九六三)二月一二日の肥前国国符(宇佐大鏡)油山あぶらやま十二箇所として記される大河おおかわ山・伊福いふく山が別符化したものとされる。嘉元二年(一三〇四)五月一〇日豊前長谷ながたに(現福岡県北九州市門司区)の替地として伊福七郎跡が領知していた大豆津別符の田畠在家などを得た藤原慈悲が、同年一一月二三日大川などを本拠とする大河幸継(法名は幸蓮)養子として譲与した(元亨三年一二月五日「鎮西下知状案」大川文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報