大国庄(読み)おおくにのしよう

日本歴史地名大系 「大国庄」の解説

大国庄
おおくにのしよう

和名抄大国郷の系譜をひき、庄とも郷とも記され、現愛知川えちがわ豊満とよみつ東円堂とうえんどう一帯に比定される。庄内の全戸が奈良東大寺封戸となっており、貞観年間(八五九―八七七)の同寺三論宗による買得集積によって、一〇世紀前半までに同寺領庄園となった。しかし庄園整理令で収公されたと思われ、平安時代末期に本家を天皇家とし、領家を西園寺家とする庄園となった。上下に分れ、上庄は奈良春日社に寄進され奈良興福寺の管領となっている。延暦一五年(七九六)九月二三日の墾田売券(吉田文書)に大国郷とみえ、同郷の戸主鳴前乙麻呂が秦東人の開いた一〇条五里・六里にある二段一二八歩の墾田を稲七〇束で同郷戸主調首新麻呂に売っている。これを含めて、新麻呂によって一〇条五里・六里の田八段三〇四歩が、依知秦公浄男によって一一条七里・九里、一二条七里・八里・九里、一三条一〇里の一町一段六〇歩が、依知秦公浄雄によって一〇条五里・六里の一町弱が、東大寺三論別供別当安宝によって一〇条五里・六里・九里、一一条七里・八里、一二条七里の一町二段一〇〇歩が集積された。これらの土地は、文書の伝来から考えて、後述する二点を除いてすべて最終的には東大寺領となったと考えられ、その総計は重複もあると思われるが六町弱になり、東大寺領大国庄の母胎となったと考えられる。例外の二点は天長元年(八二四)一〇月一一日に、紀鷹守が当郷高野たかの村にある野地五七町・畠地三町および西を愛知川、東と南を「黒川」、北を「岸壇上」で限られた山六〇町を無品俊子内親王家に売っているが(「野地売券」赤星鉄馬氏所蔵文書)、この文書には奈良元興がんごう寺三論宗を示す「元三論印」が押してあり、延喜二年(九〇二)一一月七日に当郷に居住する依知秦又子が一三条一〇里九坪にある墾田二九〇歩を元興寺三論別供伝灯料として寄進したものであるから(「依知秦又子解」東南院文書)、当庄内に散在する元興寺領愛智庄に組入れられたと思われる。

大国庄
おおくにのしよう

弟国おうぐに付近に展開した東寺領荘園。弘仁三年(八一二)一二月一九日付民部省符案(林康員氏蔵文書)によれば、桓武天皇の皇女布施内親王の家領であった四つの荘が勅宣によって東寺に施入されており、このうちの一荘に伊勢国大国庄の名がみえる。施入時の面積は一八五町九段一八〇余歩。四至は承和一二年(八四五)一一月一五日付の多気・飯野両郡司宛伊勢国符および承平二年(九三二)一〇月二五日付伊勢太神宮司解案(いずれも東寺文書)に「限東宇保村高岡、限南多気郡佐奈、限西中万氏墓、限北四神山里縄并大溝」と四至が記されている。同年八月五日付太政官符案(高山寺所蔵東寺文書)には、「例領百十一町四段歩 川成常荒地八十三町余 熟田廿七町余 為他妨領田地七十四町五段百歩 川成荒地卅五町 熟田卅九町五段百歩 公田妨領十五町 土浪人私治田隠作廿四町五段百歩」とあり、常荒地として八三町、川成荒地として三五町が記されている。同年一〇月二五日付伊勢太神宮司解案に引く天長九年(八三二)二月一六日付官符および斉衡三年(八五六)四月二三日付官符によれば「飯野郡浪人」による川合庄・大国庄の開発が目論まれている。東寺は承和二年、大国庄内に散在する公田二一町二反一四〇歩と東寺領川合庄田の相博を企てた。相博直後から国司・神民等の押領が続発し、一〇世紀前半、東寺側が旧川合庄田を奪取し、事実上相博を解消した(承平二年八月五日付「太政官符案」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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