多々良庄(読み)たたらのしよう

日本歴史地名大系 「多々良庄」の解説

多々良庄
たたらのしよう

和名抄」記載の多良たたら(高山寺本は「達良」)の地をその荘域としたものと思われ、三浦氏系図(三浦家文書)の平子重経の記事に「建久八年丁巳、始下於仁保庄、又賜多々良庄」とみえる。建久八年(一一九七)二月二四日の前右大将家政所下文案(同文書)で平子重経が仁保にほ(現山口市)地頭職を得て、周防に下向して平子氏を称したが、この頃当荘の地頭職も得たかどうかは不明。乾元二年(一三〇三)四月二六日の平子重有和与状案(同文書)に初めて「周防国仁保庄多々良庄地頭平子彦六郎重有」とみえる。この和与状によれば重有は兄如円と当荘内法興寺免田などをめぐって争ったが、法興寺の敷地一町などを如円に与えることで結着している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報