夏見村(読み)なつみむら

日本歴史地名大系 「夏見村」の解説

夏見村
なつみむら

[現在地名]名張市夏見・富貴ふきおか五番町・百合が丘東ゆりがおかひがし一番町・同六番町・百合が丘西ゆりがおかにし一番町

青蓮寺しようれんじ村の北、なか村の東北部に位置する。村のほぼ中央で青蓮寺川と比奈知ひなち(名張川)が合流し、合流点付近に人家が集散在する。名張地方では最も多くの古墳が確認され、弥生時代のものと推定される石棒も出土し、早くから開けた地であった。天平三年(七三一)の伊賀国正税帳(正倉院文書)にみえる名張郡主帳夏見金村はこの地の出身者と思われ、夏見は奈良時代にはすでに定着した地名であったと推定される。壬申の乱で大海人皇子吉野よしの(現奈良県)より東国に向かう途次、名張の横河よこがわで占いをして瑞兆を得たのは夏見坊垣ぼうかい(ぼんがい)辺りと推測され、これより伊賀郡に至っているから(「日本書紀」天武天皇元年六月条)、ここは畿内の入口にあたり、大和と東国を結ぶ東西交通上の要衝であった。神護景雲元年(七六七)武甕槌神常陸鹿島かしま(現茨城県)より奈良へ渡御の途中、夏見郷一之瀬いちのせにとどまり、禊を行ったという記録があり(春日社記ほか)、その春日遷幸遺跡が中川原なかがわらにある積田せきだ神社にあてられていることからも、ここが古代官道上にあったことをうかがわせる。このような地理的要件が関係してか、神亀二年(七二五)白鳳天平文化の粋を集めた昌福しようふく寺が建立された(大和薬師寺縁起)。この大寺建立の発願者が天武天皇皇女で伊勢斎王の大来皇女であれば、同皇女の所領が夏見にあったはずである。

弘仁(八一〇―八二四)の頃には文武天皇皇女で伊勢斎王の多貴内親王や淡海広川の所領田があり、同じ頃に光仁天皇皇女で伊勢斎王の二品酒人内親王の領する栗林六町三段があったが(康保二年一二月一九日「伊賀国夏見郷刀禰解案」東大寺文書)、これらを含めて田地約六町、栗林一〇〇町余、野地八〇町と計二〇〇町近い広大な土地が康保二年(九六五)には参議勘解由長官藤原朝成の領有となっていた(伊賀国夏見郷刀禰解案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報