墨俣城跡(読み)すのまたじようあと

日本歴史地名大系 「墨俣城跡」の解説

墨俣城跡
すのまたじようあと

[現在地名]墨俣町墨俣 城之越

東流するさい川が現町域北東端で長良川に沿って南に流路を変える地の中洲に位置する。永禄九年(一五六六)築城といわれ、その当時は東から木曾川、北の本巣もとす郡から犀川五六ごろく川などが当地で長良川に合流していた。永禄五年四月、織田信長は美濃国攻略の前戦基地を墨俣に決め、ここに城を築き斎藤龍興の稲葉山城を攻めるのが最上の策と考え、佐久間信盛に城の構築を命じた。信盛は五千の人夫を指揮して工事を進めたが、斎藤勢の夜襲に遭い失敗に終わった。二回目の築城にあたった柴田勝家は、築城準備を整え同年五月、斎藤勢の攻撃に備えながら工事を進めたが、大垣城にいた斎藤勢の重臣長井飛騨守の夜襲によってまたも失敗に終わった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報