堺南庄(読み)さかいみなみのしよう

日本歴史地名大系 「堺南庄」の解説

堺南庄
さかいみなみのしよう

古代律令国家のもとでの地方行政区画でいえば和泉国大鳥郡塩穴しおあな郷の一部を占めていたと思われる庄園で、中世に堺南庄の鎮守社となった開口あぐち神社は延喜式内社である。中世の記録では開口神社周辺を「塩穴下条開口大井正里」(正平二一年一一月八日「沙弥道照田地寄進状」開口神社文書)と称していて、砂洲上に耕地が開発されたのは古代にさかのぼり、もともと漁業従事者によって開拓が展開していたものと思われる。平安時代後期には摂津・和泉両国の国境が接する辺りの大阪湾に面した海浜に港湾も発達し「堺津」とよばれ、その東方の国境に沿ってほぼ東西に通じていた小路の両側に市場が形成され、これがのちの大小路おおしようじ町や市之いちの町の起源となった。この小路の南部に堺南庄が成立した。堺南庄の初見は南朝後村上天皇が和泉守護に発した年未詳九月六日付綸旨(住吉大社文書)で、「住吉社領当国堺南庄着岸船事」とみえ、南北朝期には住吉大社(現住吉区)領であった。天福二年(一二三四)二月五日の念仏寺一切経蔵等建立注文(開口神社文書)に「摂津国内北庄」がみえるところから、鎌倉時代初期にはすでに和泉国堺南庄が成立していたものと推定される。「後深草院御文類」所収の嘉元二年(一三〇四)七月八日付譲状によると「堺庄」の本所職が大宮院(後嵯峨天皇中宮藤原子)からその母であった准后藤原貞子へ、さらに後深草天皇を経て永福門院(伏見天皇中宮藤原子)へと持明院統に継承され、また領家職は四天王寺(現天王寺区)遍照光院に相伝されているが、これは堺南庄のことと考えられている。正嘉二年(一二五八)の和泉国御家人着到注文(和田文書)にみえる鎌倉幕府御家人塩穴中務丞や文永九年(一二七二)一〇月六日の和泉御家人大番役支配状案(同文書)に登場する御家人塩穴左衛門尉は堺南庄辺りに本拠を構えるものであろう。開口神社の神宮寺念仏ねんぶつ寺は平安時代末には成立し、近隣の住民から田畑の寄進が相次いでおり(開口神社文書)、また鎌倉時代堺津の港湾施設は堺南庄側に集中していたのではないかと考えられる。

南北朝内乱の初期、南北両朝軍の堺争奪をめぐる動きは活発である。建武四年(一三三七)六月一一日の足利尊氏御教書(春日大社文書)によれば、堺浦の魚貝商人が大和吉野にあった南朝に内応したとして北朝足利方が魚貝商人の活動を停止させたため、奈良春日社への供御まで闕怠するに至ったとして春日社神人から訴えが出され、将軍家は和泉守護細川顕氏にその実状調査を命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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