和賀稗貫一揆(読み)わがひえぬきいっき

改訂新版 世界大百科事典 「和賀稗貫一揆」の意味・わかりやすい解説

和賀・稗貫一揆 (わがひえぬきいっき)

1590年(天正18)陸奥国に起きた一揆。同年7月,豊臣秀吉による南部信直に対する〈南部内七郡〉宛行によって,和賀・稗貫両郡は南部領に編入され,和賀・稗貫両氏は従来の領主権を失った。同年10月葛西・大崎氏の旧領に一揆が蜂起したのに続いて,和賀義忠と稗貫広忠は一族以下を率い,鬼柳伊賀守らをさそって,稗貫郡鳥谷ヶ崎(とやがさき)城に秀吉麾下の浅野庄左衛門重吉を攻囲した。急報に接した南部信直によって一揆勢は退けられ,重吉は救出された。和賀・稗貫勢は士卒2000人,浅野方は100騎と足軽150人と伝えられる。翌年,豊臣秀次・蒲生氏郷以下の軍勢が,九戸政実(くのへまさざね)の乱および葛西・大崎一揆制圧のために下向するに至って,和賀・稗貫一揆も3日間の戦闘ののち鎮圧され,義忠も討たれた。1591年7月のころとみられる。のち1600年(慶長5)10月,関ヶ原の戦に乗じて和賀主馬忠親ら一揆残党が伊達政宗の援助のもとに蜂起したが(岩崎一揆),南部方により鎮圧された。
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