吉久保村(読み)よしくぼむら

日本歴史地名大系 「吉久保村」の解説

吉久保村
よしくぼむら

[現在地名]小山町吉久保

鮎沢あゆざわ川支流佐野さの川の左岸に位置し、東は菅沼すがぬま村、南は大胡田おおごだ村。吉窪とも書き、大森葛山系図(続群書類従)では、久安二年(一一四六)四月信濃権守に補任された藤原親康(本朝世紀)曾孫にあたる忠茂(菅沼三郎入道)に「吉窪殿云也、法名仏念」との注記がある。寛永一〇年(一六三三)に相模小田原藩領、天和三年(一六八三)旗本稲葉領、宝永五年(一七〇八)幕府領となり、天明五年(一七八五)相模荻野山中藩領に転じ、同領で幕末を迎える。寛永改高附帳では吉窪村とみえ、田高三二石余・畑高四〇石余。

吉久保村
よしくぼむら

[現在地名]大月市笹子町吉久保ささごまちよしくぼ

白野しらの村の西、桂川支流笹子川の上流部で、しだいに狭まる渓谷の間に位置している。蘆窪とも記す(甲斐国志)。古くは黒野田くろのた村のうちであったが、寛文九年(一六六九)検地で当村および黒野田・白野の三ヵ村に分村したという。村内には甲州道中阿弥陀海道あみだかいどう宿が置かれた。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では黒野田村の高に含まれていた。寛文九年の郡内領高辻帳では高八四石余。天保三年(一八三二)の村高七通順列諸留(増田広実氏所蔵文書)では田高二七石・畑高五七石とあり、畑がちの村である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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