古曾部村(読み)こそべむら

日本歴史地名大系 「古曾部村」の解説

古曾部村
こそべむら

[現在地名]高槻市古曾部町一―五丁目・八丁西はつちようにし町・大学だいがく町・奥天神おくてんじん町一―三丁目・紺屋こんや町・高槻町・北園きたその町・城北じようほく町二丁目・天神てんじん町一―二丁目・白梅はくばい町・別所本べつしよほん町・宮が谷みやがだに町など

真上まかみ村・上田辺かみたなべ村の東、高槻村の北にある。檜尾ひお川右岸とあくた川左岸の中間丘陵山麓に位置し、中央南寄りを西国街道がほぼ東西に走る。地名は上田辺村北部にある式内社野見のみ神社(現上宮天満宮境内社)の社部(こそべ)に由来するともいうが、北接する成合なりあい金龍こんりゆう寺の開創と推定される阿部兄雄が「新撰姓氏録」(左京皇別上)にみえる許曾部朝臣と同祖で、同朝臣は「大彦命之後也、日本紀漏」と記されるから、当地が許曾部氏の本貫であった可能性もある。永享九年(一四三七)四月吉日の成合村春日大明神神事例式写(岩家文書)に神事を勤めた一村として村名がみえる。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図では「町・古曾部村・ヒル神村・善住寺」ともで高八五四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報