口谷尻村(読み)くちたにじりむら

日本歴史地名大系 「口谷尻村」の解説

口谷尻村
くちたにじりむら

[現在地名]大野町 縄田なわだしもはまごう

小田之口こたのくち(現中津岡川)以西、現在の郷のうちの一部と縄田・下ノ浜辺りを中心とし、他は大野村内の所々に入組み散在した。

天正一七年(一五八九)一一月一〇日付の厳島社社家内侍等拘分付立(野坂文書)では「大野谷尻」とあり、七貫五〇〇匁の地が厳島神社石田内侍の給地であった。慶長六年(一六〇一)の福島検地により谷尻村が成立し、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高二〇五石余。翌年谷尻村が奥谷尻おくたにじり(現大竹市)と口谷尻との二ヵ村に分村。広島藩領家老上田家知行所で、「国郡志下調書出帳」によれば畝数一三町九反七畝一七歩で高一七一・四九五石。しかし土地は大野村の中に複雑に入組み、散在していたため一村としてのまとまりがなく、事実上大野村といっしょに一村として扱われ、後には大野口谷尻村と併称された(芸藩通志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報