南瓦屋町(読み)みなみかわらやまち

日本歴史地名大系 「南瓦屋町」の解説

南瓦屋町
みなみかわらやまち

[現在地名]南区瓦屋かわらや町一―三丁目・中寺なかでら一丁目・高津こうづ一丁目など

松屋まつやおもて町・同うら町の南にある。西は東横堀ひがしよこぼり川と高津五右衛門こうづごえもん町に接し、東は生玉筋中寺いくたますじなかてら(現天王寺区)辺りまでの広い町域をもつ。「天保町鑑」には「東ぼり九之助ばし東詰少シ北より、南ハ道とんぼり川少シ内より北へ、浜がハ松屋町通りより東へ四筋、北ニ高津北坂の下迄寺町境(ママ)」とある。町名は元禄八年(一六九五)初めて水帳を公儀に差出したときからで、それ以前は瓦屋町といった(同年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)。当地は慶長二〇年(一六一五)瓦師寺島惣左衛門休清が徳川家康より拝領したもので、四万六千坪あった(寺島藤右衛門由緒書「大阪市史」所収)。惣左衛門は当地に配下の瓦師たちを住まわせたが、寛永一一年(一六三四)三郷地子免除があった折、惣左衛門の子五郎兵衛は瓦屋町の瓦師にも同様に屋敷地子を免除した(前掲水帳)。寺島家は豊臣時代から天王寺てんのうじ(現天王寺区)辺りを本拠とする瓦師であったが、大坂の陣で徳川方につき、大坂城内の情報を徳川方に伝えるなどして功をたて、戦後南瓦屋町、のち瓦土取場かわらつちとりばを拝領するとともに御用瓦師として独占的地位を得た。また大坂城内出入りの由緒町人三家の一でもあった(大阪市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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