千谷村(読み)ちだにむら

日本歴史地名大系 「千谷村」の解説

千谷村
ちだにむら

[現在地名]温泉町千谷

鐘尾かねお村の南にあり、集落は北流する岸田きしだ川の左岸、千谷川との合流点付近に発達。鐘尾村から岸田川沿いに南下してきた山陰道は当地で西に折れ、蒲生がもう峠を越え因幡国岩井いわい蒲生(現鳥取県岩美町)に至った。また同道から分岐して岸田川沿いに南下を続け、岸田村に向かう道(岸田往来)も通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ちん谷 にし谷殿」などとある。文明三年(一四七一)の八太庄領家分米銭納帳写(中村文書)には「千谷村」がみえる。慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、元和三年(一六一七)幕府領、寛永四年(一六二七)旗本宮城領となる。

千谷村
ちやむら

[現在地名]小千谷市千谷

小千谷村より信濃川沿いに片貝かたかい村に通じる長岡道の西側に長く連なる集落。北は三仏生さぶしよう村、西は山谷やまや村、南は千谷川ちやがわ村。慶長三年(一五九八)の堀検地の検地帳写(魚沼三郡誌徴考書)では田畠合計二三町二反大二三歩。このうちには「こうのす分」の田畠があり、ほとんどは藤兵衛の所有である。「こうのす分」は鴻之巣こうのす村からの入作であろう。畠には一筆ごとに「あわ」「ひへ」の作物名が記され、粟は二町二反余のうち上畠に八反余あり、蕎麦は二町七反余のうち下畠に二町余ある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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