千本村(読み)せんぼんむら

日本歴史地名大系 「千本村」の解説

千本村
せんぼんむら

[現在地名]新宮町千本

千本下村の北西に位置し、栗栖くりす川中流域に立地する。揖西いつさい郡に属した。美作道が通り、鎌倉時代末には宿が形成されていた。元弘三年(一三三三)の「書写山行幸記」に千本宿とみえ、伯耆国船上せんじよう(現鳥取県赤碕町)から京都へ凱旋する後醍醐天皇が五月二六日に同宿に至り、書写山円教えんぎよう(現姫路市)参詣の迎えとして参向した同寺衆徒らとともに翌日同宿を立っている。文明一二年(一四八〇)当地にあった栗棘山慈恩じおん禅寺で天隠龍沢が宝洲宗衆の七周忌を行っている(黙雲稿異本)。「大昌院略記」によると天隠龍沢は千本に生れ、千本慈恩寺長老宝洲宗衆に養われ僧になったという。また船曳杢左衛門宛の年未詳一二月四日付能見祐清感状写(黒田文書)によれば、祐清は千本表に出陣し、敵をことごとく打果したという。

慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主変遷芝田こげた村と同じ。寛永一三年(一六三六)龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高七四二石余、高六一三石余。

千本村
せんぼむら

[現在地名]相川町高千たかち

南は入川にゆうがわ村、北は高下こうげ村。集落は段丘崖下の海岸に沿って集中する。背後に広がる海岸段丘は水田化される。海岸線中央の海に突出た入崎(千本鼻)は、入川からの土砂により砂洲が発達し、沖の岩とつながって陸地ができた陸繋島。近世から海上交通の目印であったが、沖合に浮ぶ沖の神子おきのみこ岩周辺は岩礁が多く、海の難所として知られた。入川村の出村で、古くは下入川村と称したと伝える。真言宗智山派の薬泉やくせん寺の縁起(高千村史)によると、本尊薬師如来は至徳元年(一三八四)漁夫の網にかかって引揚げられ、明徳二年(一三九一)夏の旱魃に際し、入崎浜へ一千本の塔婆を立て、この秘仏を請じて雨乞の法を修めたため、この年から千本村に改めたと伝える。

千本村
せんぼんむら

[現在地名]君津市広岡ひろおか

鳥居台とりいだい村の北東に位置する。村域は千本谷に沿って展開し、西方向へ下ると谷向たにむかい村から鳥居台村を通り村へ通ずる道に合流する。天正八年(一五八〇)一一月の妙本寺日我書状(椙山文書)に、同六年の里見義弘死後の里見氏の内紛のとき安房里見義頼が上総に攻め込み、「せんほん」を陥落させたことがみえ、当時城があったことがわかる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五九石。元禄郷帳では高一一一石余、天保郷帳では高一四八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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