北陸宮(読み)ほくりくのみや

朝日日本歴史人物事典 「北陸宮」の解説

北陸宮

没年寛喜2.7.8(1230.8.17)
生年:永万1(1165)
平安末・鎌倉時代前期の皇族以仁王の子。木曾の宮。還俗の宮ともいわれる。治承3(1179)年以仁王の平家打倒計画が発覚し,剃髪して寿永1(1182)年北陸に逃げる。翌年平家一門の都落ち後,源義仲は皇位継承候補者に宮を推挙し,祖父後白河法皇に招かれる。即位はならなかったが,文治1(1185)年11月に源頼朝の計らいにより上洛する。このときにはすでに還俗,元服をしていた。建久・正治ころ(1190年代)に源姓を望むが許されず,老後嵯峨に住む。藤原宗家の娘を妻とし,土御門上皇の皇女を養育する。前半生では常に出自信憑性に疑いを持たれ,のちには遁世者の如く生涯を送った。<参考文献>村上学「傍系人物三人」(『説話論集』二)

(櫻井陽子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北陸宮」の解説

北陸宮 ほくりくのみや

1165-1230 平安後期-鎌倉時代,後白河天皇の孫。
永万元年生まれ。以仁(もちひと)王の第1王子。以仁王が平氏追討の戦いに敗れ討ち死にすると,剃髪(ていはつ)して北陸へのがれる。のち源義仲(よしなか)に保護されて還俗(げんぞく)。寿永2年義仲は宮を皇位につけようとしたが失敗した。木曾宮,還俗宮ともいう。寛喜(かんぎ)2年7月8日死去。66歳。

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