加賀沢村(読み)かがさわむら

日本歴史地名大系 「加賀沢村」の解説

加賀沢村
かがさわむら

[現在地名]大内町加賀沢

いも川中流の左岸の河岸段丘上にある。東は葛葉見くつばみ村・須山すやま村、西は大倉沢おおくらざわ村・徳沢とくさわ村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)新沢あらさわ郷の一村として村名が記される。寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写には一四七石九斗三升五合、納米六六石五斗七升一合、免四ツ五分とある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に九〇石六斗五升二合、そのうち畑は八石一斗八合、田は八二石五斗四升四合で、「旱損所 かや山有 新開有」とある。寛永一一年には石井清五郎、正徳二年(一七一二)には中野太五左衛門の知行地となった(石井清五郎宛知行目録、中野太五左衛門四ケ村御智行高覚)

加賀沢村
かがさわむら

[現在地名]細入村加賀沢

蟹寺かんでら村の南西、神通川上流の宮川左岸の緩斜面に立地する。対岸は飛騨加賀沢かがそ(現岐阜県宮川村)地名のカガを草地に由来するという説と、崖地に由来するという説がある。天正四年(一五七六)七月下旬、上杉謙信は飛騨攻略のために河田長親に「婦負郡加賀沢」を通って小豆あずき(現宮川村)に押入らせているが、当時この地は「騎馬して通り難き隘路、多勢却て悪かりなんとて、態と寡兵を用られたり」という(北越軍談)

加賀沢村
かがそむら

[現在地名]宮川村加賀沢

宮川右岸にあり、南西は鮎飛あゆとび村、北東たに(現神岡町)、西対岸は越中国加賀沢村(現富山県婦負郡細入村)。「斐太後風土記」に「蘭沢を仮字にて加賀沢と云ならむ。凡て其地に生出る物の名もて地名とせしにや」とあり、ががいもが繁茂していたための地名とする。元禄検地帳(宮川村文書)では小島こじま郷に属し、高四石余、畑のみ三町三反余。ほかに焼畑七反余があり、名請人七人で、屋敷九戸のうちには家抱え一・番所敷一が含まれる。口留番所は寛政二年(一七九〇)まで存続した(「飛騨国雑書」高山市郷土館蔵)。「飛騨国中案内」では免三割五分余、家数九(うち百姓七・門屋二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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