加津佐村(読み)かづさむら

日本歴史地名大系 「加津佐村」の解説

加津佐村
かづさむら

[現在地名]加津佐町水下津名すいげつみよう六反田名ろくたんだみよう上宮原名かみみやばらみよう下宮原名しもみやばらみよう野田名のだみよう津波見名つばみみよう

現加津佐町域のすべてを村域とし、近世は五ヵ村(または五ヵ名)からなっていた。江戸時代は島原藩領の西目筋に属する。慶長国絵図に「加津佐」とみえ、高二千七〇〇石余。慶長一九年(一六一四)有馬晴信の子の直純が日向あがた(現宮崎県延岡市)に転封となるに伴いキリシタンへの弾圧はより厳しくなるが、六月、長崎奉行長谷川藤広が来島、口之津くちのつ(現口之津町)六人、加津佐四人、有家ありえ(現有家町か)六人、島原六人など高来たかくの主立った町々の長をよび、内府(徳川家康)の不興を被らぬよう棄教するよう説得したが、彼らは国王や我々の殿に任せることについては、それが正しいことであれば、今までのとおり任せるが、我我の魂や救霊のこととなれば、我々が正しいと思うことを変えるわけにはいかない、あらゆる町村民の代表として、その余の教えに入ることなどは断じてできないと答えている(アビラ・ヒロン「日本王国記」)。同年一一月に口之津で殉教した二二人のなかには当地の福島新右衛門・臼井彦三郎がいた。元和六年(一六二〇)には当地出身の伝道士マチヤスが拷問を受けて殉教している(「日本殉教録」など)。寛永一〇年(一六三三)「加つさ村」にいた南蛮伴天連(日本名は法斎、南蛮名はジヤコウベ・アントニオ・ジャンノンネ)と同宿の九兵衛は大村藩預となった(大村見聞集)。同一四年からの島原の乱では口之津村と合せ家数五八一・人数二千九四九の全員が一揆方に参加、庄屋役の助右衛門・宗右衛門・三平や加津佐郷兵衛らがみえるが(島原一揆松倉記)、乱後、当村は無人と化したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報