内山下(読み)うちさんげ

日本歴史地名大系 「内山下」の解説

内山下
うちさんげ

[現在地名]津山市山下さんげ大手町おおてまち

津山城内三の丸にあたる地域で、明治三年(一八七〇)一二月、山下と改称された(津山誌)。明治初年の戸数は三〇、人口は男六九・女五九(同書)。東はみや川を隔てて城下橋本はしもと町に、西から南にかけては城堀を隔てて町・元魚もとお町・二階にかい町・さかい町・きよう町・伏見ふしみ町・材木ざいもく町に、北は同じく堀を隔てて椿高下つばきこうげきた町に接する。藩政期を通じて南から西にかけて藩の役所、藩主一門重臣の屋敷が置かれ、作州津山城二丸之図(森家先代実録)によれば、森氏時代には元禄期(一六八八―一七〇四)に作事所・細工屋敷・女中屋敷・児小性屋敷・馬屋などの用屋敷、さくら馬場、霊光院殿御屋敷・関大蔵・関式部・森門十郎・原十兵衛・各務兵庫・長尾内膳らの重臣の屋敷がみられる。

内山下
うちさんげ

[現在地名]岡山市内山下一―二丁目・丸の内まるのうち一―二丁目

内堀以内の郭内地。曲輪とよばれた地域で、支封以下の藩の重臣・諸士の屋敷地。寛永九年(一六三二)池田光政が岡山移封になり、城受渡しとなったが、「内山下請取口々ニ番ヲ居家ノ上中下改帳ニ作可上役」(「大蔵勤書」岡山市史)とある。「吉備温故秘録」に城内のほか次の地域が記される。

内目安うちめやすは下乗橋の前で御対面所や万治二年(一六五九)設けられた御廟・米倉などがあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android