内宿村(読み)うちじゆくむら

日本歴史地名大系 「内宿村」の解説

内宿村
うちじゆくむら

[現在地名]北浦村内宿

武田たけだ川右岸にあり、東は成田なりた村、西は両宿りようしゆく村。古代は「和名抄」にいう高家たかべ郷の本郷の地といわれ、「新編常陸国誌」は「コノ地旧名ハ、武家又武井ニ作ル、武家ハ即高家ナリ」と記す。武家は弘安大田文・嘉元大田文に「武家十八丁二段」とある。中世は武田氏の一族がこの地を支配し、正保(一六四四―四八)以後内宿・両宿両村に分村したといわれる(新編常陸国誌)。天正一九年(一五九一)武田氏滅亡後は佐竹・仁賀保・皆川各氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)守山(松川)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)

寛政元年(一七八九)の常州御領銘細帳写(宮内家蔵)には村高六六七石余、田四三町余・畑二町余、家数四七・人数一九四、馬二〇、物成米は当河岸積出し、寺三ヵ寺(臨済宗自性寺、天台宗の善性院・最勝院)、鎮守香取明神(祭九月二八日)、村方用水溜池四ヵ所、酒造一軒(作り高三〇石ほど)などと記される。

内宿村
うちじゆくむら

[現在地名]寄居町鉢形はちがた

白岩しらいわ村の北に位置し、南西木持きもち村。戦国期鉢形城の城下にあたるといわれ、当村の小名には御弓小路おゆみこうじ殿原小路とのはらこうじ法音寺小路ほうおんじこうじ新宿しんしゆく西行窪さいぎようくぼなどの呼称が残る(「風土記稿」など)。寛文三年(一六六三)には忍藩領となっており(「寛文朱印留」など)、これ以前に白岩村から分村したとみられる。元禄郷帳では高一一八石余。享保一六年(一七三一)の高一一九石余(「鉢形割本高役高帳」杉田家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報