八坂下庄(読み)やさかしもしよう

日本歴史地名大系 「八坂下庄」の解説

八坂下庄
やさかしもしよう

八坂庄のうちで、庄内の名の分布から考えると、庄域は現在の宮司みやじ・南杵築・相原あいわらなか日野ひのの一部と推定される。豊後国弘安田代注進状では「下庄百町 領家八幡検校法印女子」とある。八坂下庄のみが領家一円領であるかのごとき記載で、下庄は領家の支配権が強固であったことが知られ、地頭の存在を確認できない。しかし正和三年(一三一四)四月日の八坂下庄大片平正一申状(宇都宮作治文書)同日の八坂下庄大片平弁済使浄恵陳状(同文書)によれば、「先地頭多伊良左衛門殿」や「先代官多伊良左衛門殿」がみえ、いわゆる領家代官のようなものが設置されたようである。この領家代官職は、建武四年(一三三七)三月二七日の高師直書下(武内文書)によって、田原正曇(直貞)に与えられた八坂下庄の代官職につながるものであろう。その後田原正曇はこの職の替りに、暦応四年(一三四一)八月二八日肥前国山田やまだ(現長崎県吾妻町)地頭職を宛行われており(「足利尊氏(カ)袖判下文」大友家文書録)、八坂下庄の代官職がどうなったかは明らかでない。しかし康永三年(一三四四)秋吉氏が薬丸やくまる名・延道のぶみち名・守末もりすえ半名などを戸次氏に寄進し、名の経営の維持を図ったことから(同年七月六日「ひさきよ等連署奉書案」秋吉文書)、戸次氏が代官職に就任した可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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