八上城跡(読み)やかみじようあと

日本歴史地名大系 「八上城跡」の解説

八上城跡
やかみじようあと

[現在地名]篠山市八上内・八上上・殿町など

標高四五九メートル、比高二三〇メートルの高城たかしろ(丹波富士とも)山頂にある。屋上城などともみえる。山塊各所に遺構が残り、丹波でも有数の大規模な城郭である。

〔八上と波多野氏〕

八上の地は、多紀たき郡のほぼ中央部に位置し政治的要地であった。一五世紀前半頃から、郡奉行(郡使)の在庁する守護所が設置されたらしく、丹波の各庄園から守護役のうち礼銭(礼物)・役夫銭が八上で徴収されている。ほかに周辺郷村に八上日役などの八上における夫役があり(文安三年一二月二〇日「大山庄守護方公事役入足地下半分立用注文」東寺文書)、「八上日役なんは方いゑ作之時」とあるように郡奉行難波氏の屋敷の作事なども含まれ、一部武家屋敷が設けられていた(宝徳元年一二月日「大山庄一院谷公事足地下半分立用算用状」同文書)。戦国期、こうした守護所の地に波多野氏が拠点を置くようになった。波多野氏は石見国出身で、清秀の代に細川勝元から多紀郡を与えられたという(「波多野茂林居士肖像条」幻雲文集)。文明一七年(一四八五)清秀は丹波国大芋おくも社代官職を土佐光信に返付するよう命じた丹波守護代上原元秀の遵行状の打渡しを行っており、小守護代の役割を果している(二月一一日「丹波守護代上原元秀遵行状」土佐家文書など)。清秀の継子の元清は、永正四年(一五〇七)五月の細川政元の丹後攻めに参加している(細川大心院記)。しかし同年政元が暗殺され、細川家内部の家督争いが起こると、摂津・丹波の国人の間で抗争が激しくなった。当時、元清は村雲むらくも(現京都市か)に居館を構える一方で(瓦林政頼記)、八上を本格的に築城するようになったと思われる。同八年七月、「波多野城」がみえ(同書)、八上城の存在が想定される。

〔波多野秀忠の時代〕

大永六年(一五二六)一〇月、元清は細川高国と対立、高国方の瓦林・塩川・池田各氏が丹波へ進撃した。このとき波多野氏は「丹波矢上の城」に籠城し、これを撃退している(細川両家記)。その直後、元清とその後継者の秀忠は細川晴元方について上洛し、大山崎おおやまざき(現京都府大山崎町)と京都上賀茂社に各々禁制(大永六年一二月日「波多野元清禁制」離宮八幡宮文書など)を出しており、洛外周辺の治安の維持にあたっている。以後も波多野氏は晴元方として高国と京都をめぐる抗争を繰返した。晴元と高国の抗争は高国の敗死によって、晴元が覇権を握ることになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「八上城跡」の解説

やかみじょうあと【八上城跡】


兵庫県篠山市八上上にある中世の山城跡篠山盆地の中央南部、篠山川左岸の標高約460mの高城山と標高約340mの法光寺山を中心に築城されている。2001年(平成13)から始まった縄張り調査、文献・地名・地割り調査の結果、東西約3km、南北約1.4kmの広大な城域を有することが判明し、丹波富士の別名をもつ秀麗な高城山に築かれた本城は、東西約1.4km、南北約1.3kmの範囲に10ヵ所ほどの郭群が展開する。八上城は、戦国時代に多紀郡を中心に奥丹波地方一帯を支配し、管領細川氏の有力衆として活躍した波多野氏の本拠地の山城であり、明智光秀による丹波攻略の主戦場としても著名であることから、その保護を図るため、2005年(平成17)に国の史跡に指定された。JR福知山線篠山口駅から車で約27分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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