保津筏師庄(読み)ほづいかだしのしよう

日本歴史地名大系 「保津筏師庄」の解説

保津筏師庄
ほづいかだしのしよう

保津は古代より大堰おおい川の要津であり、「延喜式」(木工寮)に記す丹波滝額津たきぬつに比定される。同所の筏師は摂関家の領知するところであったとみえ、のち摂関家領の多くを継承した近衛家の所領目録(建長五年一〇月「近衛家所領目録」近衛家文書)に「庄務本所進退所」の一つに「保津筏師同国(丹波国)春日局」とある。また室町期の近衛房嗣(後知足院殿)が写した建武三年(一三三六)一一月二八日付の「家門管領廿五所事後知足院御筆」という端裏書をもつ文書(陽明文庫蔵)にも「(丹波)国保津筏師」とみえる。

一方、御挙状等執筆引付(内閣文庫本大乗院文書)に記す観応二年(一三五一)五月二六日付の文書に「当社神供、并両季八講料所、丹州保津筏師庄間事、衆徒僉議状副具如此、子細見状候歟之由、別当前大僧正御房御消息所候也」とあって、当荘は奈良春日社の神供・両季八講料所となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報