佐野新田(読み)さのしんでん

日本歴史地名大系 「佐野新田」の解説

佐野新田
さのしんでん

[現在地名]足立区佐野一―二丁目・谷中やなか五丁目など

中川右岸に位置し、南は大谷田おおやた村、北は六ッ木むつぎ新田、西は辰沼たつぬま新田。先祖書(佐野家文書)によると、文禄二年(一五九三)に千葉氏末裔と伝える佐野新蔵胤信が開発。初めは大谷田村とともに年貢が賦課されていたが、元和検地から分村したという。検地は元和二年(一六一六)関東郡代伊奈忠治により施行された。寛永四年(一六二七)にも忠治によって検地が施行され、高一八七石余が打出された(先祖書)。この時の反別は田方二二町一反余・畑屋敷五町五反余で、田が多い村であった。等級では下田が八割以上を占めた。屋敷地は中川沿いの土手に沿って広がっていた(「佐野新田検地帳写」佐野家文書)。田園簿では田一五九石余・畑二三石余、ほかに野銭永二二三文、幕府領。元禄八年(一六九五)には幕府領総検地を受け、反別二九町七反余が打出された(「田方丑ノ御水帳写」「畑方丑ノ御水帳写」佐野家文書)

佐野新田
さやしんでん

[現在地名]掛川市佐夜鹿さよしか

日坂につさか宿の東にあり、東海道が通る。慶長(一五九六―一六一五)の初め小原子こばらこ村の神谷新右衛門の別家にあたる神谷助次郎が山畑を開墾、延宝四年(一六七六)の検地で年貢定納場となったという。掛川藩主松平定勝の出府の際、助次郎が破れた馬の沓を取換えた。そして帰城までに加恩があったためこれを吉例とし、以後往来のときに片足の沓を進上することを常としたと伝える(以上「掛川誌稿」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報