二方庄(読み)ふたかたのしよう

日本歴史地名大系 「二方庄」の解説

二方庄
ふたかたのしよう

古代の二方郡二方郷(和名抄)の郷域に成立したと思われる庄園。現浜坂町の北東部を占め、北は日本海に面していたと考えられる。同郡の八太はた庄と併記されることが多く、八太・二方庄ともいわれている。養和元年(一一八一)一二月八日の後白河院庁下文案(新熊野神社文書)に「但馬国 八太・二方庄」とみえ、京都新熊野いまくまの社領二八ヵ所の一つとして勅事・院事・国役などが停止された。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文では「八太・二方庄 五十一町九反」とみえ、「新熊野並歓喜寿院領」「久米田寺行円房沙汰」との注記がある。歓喜寿院は七条院が七条坊門しちじようぼうもん(現京都市下京区)居所に建立した持仏堂に始まる。庄務を預っていた行円房は和泉久米田くめだ(現大阪府岸和田市)中興開山で、この頃は北条得宗家被官安東蓮聖が久米田寺の外護者であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報