亀甲村(読み)かめこうむら

日本歴史地名大系 「亀甲村」の解説

亀甲村
かめこうむら

[現在地名]大分市丸亀まるがめ 亀甲、鶴瀬つるせ

大野川と乙津おとづ川に挟まれた輪中地域にある。ほぼ北流してきた大野川は当村の南で東から北に湾曲しており、東は上徳丸かみとくまる村、北は下徳丸村。江戸時代を通じて肥後熊本藩領。高田手永洲ヶ在八ヵ村のうち。「豊後国志」にも上徳丸村の枝村と記され、藩の支配単位上は同村の枝村であるが、文化一〇年(一八一三)当時は庄屋が置かれていた。西に当村の枝村の大鶴おおつる村があった(高田風土記)。「肥後国誌」は「大鶴村・馬場村・大久保村・高畑村」などの小村ありと記す。文化一〇年の高一三一石余、すべて畑方で一三町六反余。大鶴村の高一三五石余、畑方で八町八反余。本村の竈数八七・人数四六二、馬二一。

亀甲村
かめのこうむら

[現在地名]玉名市亀甲

繁根木はねぎ川の右岸にあり、東は繁根木村、北は岩崎いわさき村、西・南はなか村に接する。東西に三池みいけ往還が通る。弘治三年(一五五七)三月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書)によれば建久四年(一一九三)大野おおの別符に下向した紀国隆の子に中村太郎時隆があり、その子孫は代々中村を名乗ったが、領地中村を失ったため亀甲を名字としたという。弘治三年三月二五日の大友義鎮預ケ状(志賀文書)に「亀甲弐町」とあり、志賀民部太輔親度に預け進められた。

亀甲村
かめのこうむら

[現在地名]八女市亀甲・たつはら

蒲原かまはら村の西にあり、やま川が流れる。古くは蒲原村のうちと伝え、氏神は蒲原村の坂本さかもと山王宮。寛文四年(一六六四)の有馬頼利領知目録(寛文朱印留)に亀甲村とみえる。元禄五年(一六九二)の田八町五反余、畑・居屋敷四町余(「新庄組井手水掛畝高帳」矢賀部家文書)。本高は九二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一四〇石・役高一七四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一七四石。文化一五年(一八一八)の田畑春免高外書上帳(矢賀部家文書)では田畑惣畝一九町のうち本地田九町四反余・畑田三反余・開田三反余・畑二町二反余・開畑三町四反余、居屋敷二反余、物成米七〇石余・大豆一〇石余、古高・春免高のほか山口高九二石余とあり、夏物成銀九七匁余・受藪運上銀五匁余・受山運上銀二匁・植立山一町、人家三〇・人数一四〇、作馬一四。

亀甲村
かめのこうむら

[現在地名]掛川市亀の甲一―二丁目・南西郷みなみさいごう

さか川の左岸にあり、西は南西郷村。「家忠日記」天正一六年(一五八八)一二月二六日条に「懸河竹谷与次郎知行かめのかう迄こし候」とあり、「かめのかう」は当地をさすのであろう。文禄二年検地高目録に「亀甲村」とみえ、高一三五石余。正保郷帳では田方一二六石余・畑方一三石余、掛川藩領、ほかに長福寺領一石余がある。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領と長福寺領。延享三年(一七四六)幕府領、明和五年(一七六八)掛川藩領となる(文政一二年御高等書留など)。「掛川誌稿」では同藩領と旗本井上領の相給。旧高旧領取調帳では掛川藩領一一三石余・浜松藩領三五石余、万福寺領一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android