中野彦兵衛(読み)なかの・ひこべえ

朝日日本歴史人物事典 「中野彦兵衛」の解説

中野彦兵衛

生年生没年不詳
江戸前期の筑前博多豪商貿易を業とした。法名了清,博多十二人年行司のひとり。妻は末次宗得の娘。博多西町上西側に住んだのでそこを中野番といった。寛永15(1638)年宗得らと共にポルトガル船カピタンのベレイラに銀34貫を共同で貸しつけた。正保1(1644)年ごろに大賀惣右衛門らと共に博多分国糸割符の権利を所有していた。江戸時代初期の博多を代表する商人であったことがわかる。息子も彦兵衛を名乗る。孫は吉左衛門で,その妻は大賀宗恩の娘。吉左衛門の弟は末次宗得の家を継ぎ,末次与兵衛を名乗った。<参考文献>津田元顧校定・津田元貫編録『石城志』,『福岡県史』近世史料編・福岡藩町方Ⅰ

(武野要子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中野彦兵衛」の解説

中野彦兵衛 なかの-ひこべえ

?-? 江戸時代前期の商人。
筑前(ちくぜん)(福岡県)博多の町役人十二人年行司(ねんぎょうじ)のひとり。島井大賀家とならぶ豪商。正保(しょうほ)元年(1644)ごろ分国糸割符(いとわっぷ)の権利をもち輸入生糸をとりあつかい,有力な朱印船に貿易資金の貸し付け(投銀(なげがね))をおこなった。姓は末次。

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