中垣内村(読み)なかがいちむら

日本歴史地名大系 「中垣内村」の解説

中垣内村
なかがいちむら

[現在地名]龍野市揖西町中垣内いつさいちようなかがいち

清水しみず村の西から北に位置し、揖西郡に属する。西は小田おだ村。北境の山山塊を源流とする中垣内川の谷間に立地し、上流から南へ平木ひらきみやまえ井関いせき長坂ながさかくち山根やまねの集落と、中心部の寺垣内てらかいち西垣内にしがいち東垣内ひがしがいちなどの集落からなる。村の北西境の(亀山)には文和元年(一三五二)に赤松則祐により城山きのやま城の築城が開始された(新宮町の→城山城跡。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に中垣内村とみえ、小出吉政は当村の五五二石余などを与えられている。年不詳であるが慶長年間(一五九六―一六一五)検地帳(八瀬家文書)によると田方は高五三二石余、反別は上田一八町九反余・中田八町八反余・下田一町三反余・荒田三反余、畑方は高一二五石余、反別は上畑六町二反余・中畑三町五反余・下畑一町一反余・荒畑一町五反余・屋敷二町余。慶長国絵図には当村の南に恩徳寺おんとくじ村が記されているが、同村はその後の史料にはみえない。当地南部には徳道の開基と伝える真言宗恩徳寺があったが(峯相記)、嘉吉の乱で城山城落城のとき兵火により焼失し慶長の頃は中絶したままで(揖保郡地誌)、寺名を継承した村落が形成されていたものとみられる。

中垣内村
なかがいとうむら

[現在地名]大東市中垣内・中垣内一―七丁目・南新田みなみしんでん二丁目・平野屋ひらのや一―二丁目・寺川てらがわ五丁目

寺川村の南、生駒山地北西部の山麓にあり、西は深野ふこの池、干拓後は深野南新田に接し、南は河内郡善根寺ぜんこんじ(現東大阪市)鍋田川なべたがわ遺跡(縄文―古墳時代)・中垣内遺跡のほか、若宮わかみやや標高一七〇メートルの国見くにみにも弥生遺跡がある。古代の条里制では讃良さらら郡一条にあたり、東の一里の中央を東高野街道が走り、二里は西半を欠くが三の坪さんのつぼ十の坪じゆうのつぼなどの地名が現存する。宝亀一一年(七八〇)西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)に「更占郡渚浜庄」がみえるが、当地に式内社須波麻すはま神社(現須波摩神社)が所在することから、この渚浜すはま庄は当地辺りにあったと考えられる。

中垣内村
なかがいとむら

[現在地名]豊田市中垣内町

ともえ川と郡界ぐんかい川の合流点から北に広がる村。寛政期(一七八九―一八〇一)以前には渡場が設けられていた。近世においては、足助あすけ街道の人馬継立所であり、長沢ながさわ滝脇たきわき七売なのうり川向かわむき桂野かつらの―中垣内に至る滝見たきみ道と、九久平くぎゆうだいらなか村―中垣内―桂野を結ぶ雪広ゆきひろ道が通り、水陸交通の要所であった。字西にしたいらには、宇野安右衛門の屋敷城である中垣内屋敷がある。宇野氏は武田氏の落武者と伝える。今は屋敷は畑となり、古井戸と石垣の跡が残る(松平町誌)

中垣内村
なかがいちむら

[現在地名]益田市中垣内町

中河内とも書く。高津川の支流白上しらかみ川に流入する谷川流域、大道おおどう山の東麓に位置し、東は白上村、南は川登かわのぼり村。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高一六一石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二九〇石余(万手鑑)。元治元年(一八六四)金地かねじ村から出火し、白上村を経て当村なしひらに飛火し、下平しもびら中間なかまも焼失、恵美須えびす神社も焼失した(益田市史)。明治四年(一八七一)の総高三一三石余、反別六七町三反余、人数四七九(うち農四七一)・家数一一〇(うち農一〇九)、鉄砲三六、牛一〇〇・馬四九、紙漉船六五とある(万手鑑)

中垣内村
なかがいちむら

[現在地名]美和町大字中垣内

玖珂郡東北部の村で、なめら黒沢くろざわ瀬戸内せとのうちの各村に挟まれた小村。萩と岩国を結ぶ石州街道に面する。岩国藩領。

寛永二〇年(一六四三)藤谷ふじたに村を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名が出る。

村の中央部に岡が張り出し、平地は少なく、東の岡・西の岡・上り尾などの小名がある。村高は「御領分村一紙」で、高八六石、うち田方四五石余、畠方二三石余、楮一六石余であったが、楮高が多すぎ、寛文一二年(一六七二)の再検地以降は村高七七石余に改められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報