中地山城跡(読み)なかちやまじようあと

日本歴史地名大系 「中地山城跡」の解説

中地山城跡
なかちやまじようあと

[現在地名]大山町中地山

北を常願寺川、西を小口おぐち川、東を和田わだ川によって囲まれた台地上に築かれる。西麓の中地山集落からの比高は五五メートルを測る。築城者は飛騨の武将江馬輝盛である。江馬氏は飛騨高原たかはら(現岐阜県神岡町・上宝村)に勢力を有した国人であるが、永禄七年(一五六四)家中が輝盛方と時盛方に分裂した。このとき輝盛方は上杉氏らと結んで武田氏と結ぶ時盛方を攻め、降伏に追込んだ。こうして輝盛が江馬家の実権を握り、以後上杉氏と親密な関係を保ちながら上杉氏の越中での軍事行動にも参陣している。永禄七年と推定される一〇月二〇日の上杉輝虎書状(窪田粂次郎所蔵文書)によれば、輝盛が越中境に出兵し、上杉方のために働いている。江馬氏の中地山築城もこの頃であろう。文政元年(一八一八)の古城跡等書上帳(加越能文庫)などによれば、中地山城主を河上中務と記しているが、この河上中務丞富信は江馬氏の重臣で、中地山城に在城して上杉氏との交渉にあたった。輝盛は天正一〇年(一五八二)飛騨において三木氏らと戦い討死し、河上中務丞は越中有峰ありみねに逃れ、同地に隠れ住んで没したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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