中元寺村(読み)ちゆうがんじむら

日本歴史地名大系 「中元寺村」の解説

中元寺村
ちゆうがんじむら

[現在地名]添田町中元寺

しよう村の南に位置し、東は野田のだ村など。南にほうヶ岳、朝日あさひ(六一三メートル)戸谷とやヶ岳(七〇二メートル)の諸山があり、さらに南の大藪おおやぶ峠付近を水源とする中元寺川は村内を縦断するように北流し、流域耕地が開かれている。鎌倉時代は中観寺と書かれ、宇佐宮弥勒寺領。建久八年(一一九七)の豊前国図田帳写(到津文書/大分県史料一)に弥勒寺領五〇〇町のうちに「中観寺」とみえ、他庄の面積から判断して三五町であったと思われる。ただし鎌倉初期とみられる弥勒寺喜多院所領注進状(石清水文書/大日本古文書四―二)には中観寺三町とある。建武二年(一三三五)六月日の東妙・妙法両寺々領坪付注文写(東妙寺文書/南北朝遺文(九州編)一)には、中元寺孫三郎跡浄印が妙法みようほう(現佐賀県神埼町)に寄進した所領がみえ、中元寺氏は豊前国御家人と思われる。文和元年(一三五二)一一月二二日、中元寺二郎左衛門入道の知行地であった赤間あかま(現宗像市)のうちの田久たく村地頭職が宗像社に寄進されている(「大高重成奉書写」宗像大社所蔵文書/南北朝遺文(九州編)三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報