世良田村(読み)せらだむら

日本歴史地名大系 「世良田村」の解説

世良田村
せらだむら

[現在地名]尾島町世良田

西境から南境をはや川が蛇行して東へ流れ、北東を石田いしだ川が流れる。北は小角田こずみだ村、東は出塚いでづか村、南は徳川とくがわ郷、平塚ひらづか(現佐波郡境町)。全村平坦で古墳以外起伏をみない。中世には新田庄内世良田郷・世良田宿といわれ、新田氏の根本私領である空閑の郷々の中の一つ。金山かなやま(現太田市)築城以前は新田庄の経済上の中心地であり「新田庄世良田ニハ有徳ノ者多シ」(「太平記」巻一〇新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事)と称された賑いをみせていた。仁安三年(一一六八)六月二〇日に新田氏の祖義重から母を介して庶子らいわう御前に譲られ(「新田義重置文」長楽寺文書)、らいわうは長じて義季を名乗り、新田世良田家の始祖となった。承久三年(一二二一)義季は栄朝を招いて郷内に氏寺を建立。同寺は鎌倉中期には北関東の宋朝禅根本道場・十刹寺院世良田山長楽ちようらく寺に発展していった。世良田宿町も長楽寺門前町としてこの前後から急速に発展した。有徳者とよばれる富裕者・商人層が集住し、門前には宿在家や惣持そうじ寺・普門ふもん寺・天王神社など諸寺社が密集していた(弘安四年六月一五日「院豪文書注進状」長楽寺文書)。如意山普門寺は天台談所(学林)として一四世紀から史料にあらわれる古刹(「児灌頂私奥書」叡山文庫真如蔵、「灌頂持誦秘録」長楽寺蔵など)。「中今井郷内成経知行分世良田宿四日市場北並堀籠」などの表記にみられるように、中今井なかいまい郷の堀籠ほりごめに北接して世良田宿四日市場が開かれていた(徳治二年二月一一日「源成経畠地売券」同文書)。中今井にも六日市庭むいかいちば・柚垣中がみえており(嘉暦二年一〇月二九日「牧翁了一寄進状案」同文書)、門前宿のまわりに三斎市と垣内集落が集まっている町場的景観が想定できる。

当時の世良田は、佐位さい(現伊勢崎市)新田にうた駅―足利あしかが(現栃木県足利市)と連なる東山道の分道「大道」に接し、また北陸方面と鎌倉との中継点でもあった。徳治二年(一三〇七)に覚源は越後国から鎌倉に赴く途上、世良田門前にて一宿している(覚源禅師年譜略)。また南方の早川の流れを通じて利根川とも結ばれ、利根川水運ともかかわっていたと思われる。世良田歌舞伎せらだかぶき遺跡や長楽寺遺跡からは、南方諸窯系(ルソン)壺をはじめ一三―一五世紀の青白磁類や常滑・渥美焼などが大量に出土したが、西国・北陸・鎌倉を結ぶ水陸両交通の十字路としての世良田宿町の繁栄に由来するものだろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報