下谷北稲荷町(読み)したやきたいなりちよう

日本歴史地名大系 「下谷北稲荷町」の解説

下谷北稲荷町
したやきたいなりちよう

[現在地名]台東区東上野ひがしうえの四―五丁目

明治二年(一八六九)下谷唯念寺したやゆいねんじ門前など五ヵ所が合併して下谷稲荷町となり、同五年南・北に分離し、付近の武家地・寺地を合併して成立した。江戸時代には俗に広徳寺前こうとくじまえとよばれ、その範囲は東は道路を隔てて南から西照寺さいしようじ門前・下谷東町辻番したやひがしまちつじばん屋敷・陸奥福島藩板倉氏中屋敷が並んでいる。西部広徳寺の西隣は御持組与力同心大縄地(下谷上車坂町)、南は東西に通る広徳寺通(現浅草通)、北は武家地や寺院。正保江戸絵図には広徳寺・泰宗たいそう寺・宗源そうげん寺・西蓮さいれん寺・法雲ほううん寺や田地がみえ、寛文新板江戸絵図には泰宗寺の北に広徳寺の隠居所がみえ、宗源寺の東に永昌えいしよう(永昌寺)龍谷りゆうこく寺があった。

臨済宗広徳寺は京都大徳寺末。初め相模国にあった。開基は天正一〇年(一五八二)没の武蔵岩槻城主太田源五郎(北条氏政次男)で、源五郎は広徳院殿という。文禄二年(一五九三)神田で寺地一万坪を拝領して移り、寛永一二年(一六三五)同所が御用地になったので下谷に移った。寺領はなく蔵米五〇俵。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報