上福田村(読み)かみふくだむら

日本歴史地名大系 「上福田村」の解説

上福田村
かみふくだむら

[現在地名]川上村上福田

蒜山ひるぜん盆地の北西隅にそびえる擬宝珠山ぎぼしがせん(一一一〇メートル)から南東へ流下する明連みようれん川とこれに落ちる目名木めなき川が村内で旭川本流に合流し、本流左岸の沖積平野や台地の麓に堂の上どうのうえ堂の前どうのまえ小原おばら鍛冶屋かじや正富まさどみ、高原部に明連の集落が立地する。本流対岸は下徳山しもとくやま村。

正保郷帳によれば田高二二六石余・畑高五七石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高一〇八石余・開高二四石余。元禄初頭の家数四三・人数二四四(作陽誌)。文化一〇年(一八一三)の村明細帳(川上村役場蔵)によると、反別は田方二九町七反余・畑方五町一反余、百姓持林三町一反余(運上銀一六匁六分余)、家数七九(高持七三・水呑四・社家三・木地挽一。内訳と合計が合わないが史料のまま)木地挽は当時東隣の湯船ゆぶね村村山に出職、運上銀は同村へ差出した。

上福田村
かみふくだむら

[現在地名]成田市上福田

下福田村の南西に位置。天正一九年(一五九一)検地帳(下福田区有文書)に香取郡埴生はぶ福田郷とあるようにもとは下福田村とともに福田郷と称した。寛永八年(一六三一)の検地帳(上福田区有文書)があり、高二九一石余、同一九年の年貢割付状(福寿院文書)では高三〇四石余。領主の変遷は成毛なるげ村と同じ。享保八年(一七二三)の淀藩領郷村帳によると、小物成として夫役永六六三文余・栗代永四〇文・山銭鐚一貫七六三文があった。同一九年の村明細帳(上福田区有文書)によると、年貢・小物成のほかに糠・藁・縄は一〇〇石につきそれぞれ四石余・一八束・五束を納めている。

上福田村
かみふくだむら

[現在地名]倉吉市上福田

下福田村の北西、国府こう川と志村しむら川の合流点付近に位置する。北部を八橋やばせ往来が通り、国府川・志村川の谷口にあたり、関金せきがね宿(現関金町)に至る道も分岐することから交通の要地とされた。拝領高は四五二石余、本免五ツ一分。吉田氏・倉吉組士吉村氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高五〇〇石余、竈数三〇余。沖船おきふね大明神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四六九石余、竈数三六。藪役銀四匁六分を課されていた(藩史)。当村の年貢米大塚おおつか御蔵(現東伯町)に納められたが、遠方のため延享元年(一七四四)由良ゆら御蔵(現大栄町)とすることを願い、許されている(在方諸事控)

上福田村
かみふくだむら

[現在地名]加賀市大聖寺上福田町だいしようじかみふくだまち豊町ゆたかまち

大聖寺川(旧本流)の右岸に位置し、北は極楽寺ごくらくじ村。下流の下福田村とともに古くは福田とよばれ、京都北野社領福田庄の中心福田本ふくだほん郷の地。大聖寺川はこの付近では福田川と称された(年未詳八月二〇日「朝倉教景書状」武家事紀)。江戸時代初頭には耳聞山みみきやまから大聖寺川の左岸法華坊ほつけぼうあたりまでも村域としていたが、大聖寺町の拡大で接続地はしだいに町場化していったとみられる。大聖寺町には福田町福田片原ふくだかたはら町の町名があり、天保一〇年(一八三九)法華坊に籾蔵を建てたとき、一千三八六歩余(定納口米四石六斗余)が上福田村からの引高とされている(「荒町救荒籾御蔵略記」加賀市史料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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